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商人日記 2020年1~3月

NHK朝ドラで、わが故郷出身の古関金子(きんこ)さんと夫で作曲家の 古関裕而(ゆうじ)さん夫妻をモデルにした「エール」が始まりました。 今回の東京オリンピック・パラリンピックでは、震災復興を掲げているゆえか、 被災地・福島市出身の裕而さんの物語が選ばれたようです。 ところが、コロナウイルス禍の真っただ中で1年の延期となりました。 震災から今月で9年目を迎えましたが、原発の問題は未だ残ったままです。 本来の復興とは、この問題を解決していくことでもあるでしょう。 どうして原発事故が生じたのか。どうして原発を建設したのか。 核廃棄物の処理方法は建設当初から今日に至っても確定していません。 経済性を最優先する世の風潮が、いつしか楽しみだけを求めて人の痛みにも鈍くなってしまった。 もし、東京五輪が予定通りに開催されていたら、被災地の皆さんとの溝は深まったかもしれません。 被災地の皆さんの立場を慮るようにと、今回の事態は天からのエールのようにも響きます。 国民一人一人が福島の出来事を自分事として考える機会としたいです。 2020年3月31日

豊橋市民センター主催の「稼ぐまちが地方を変える」セミナーに参加しました。 講師の木下斉(ひとし)さんは、内閣官房地方活性化伝道師の肩書をお持ちでした。 官民一体となったご自身の取り組みをご紹介下さり、公共資産で民間が稼ぐことを推奨していました。 なお、稼ぐとは、私腹を肥やすためではなく、明日への投資を想定しています。 その点では、公共資産が活用されず眠っていることもあるのですが、 安売りされている実態があるかもしれません。 公共の名のもとでは、日本人の意識としては、受益者は無料が当たり前のような感覚があります。 その時、本来稼げるものから、きちんとした対価をもらえていない。 しかも、地方公共団体の財政は厳しいのが現実です。 例えば、最先端施設が市税によって出来たのなら、他の市町村からの視察時には、 視察費を頂くこともありでしょう。 それは民間も同じで、努力した者が報われる仕組みは必要です。 公共資産への視座を正していくこと。あるいは関心をもって正しく知ること。 また、それを請け負う覚悟が民間には問われています。 2020年3月23日

わが町内にある吉田天満宮には、渡辺崋山が描いたとされる天井画がありました。 それが1945年6月19日の豊橋空襲によって消失してしまいます。 ところが、同じ町内に住む図書館司書である岩瀬彰利さんが 大口喜六・初代豊橋市長が出版した「豊橋市及其附近(そのふきん)」に、その写真を見つけます。 約3センチ四方の白黒写真でしたが、その絵の構図が分かりました。 そこで、私の父親たちが地元の日本画家に依頼して、 その写真から想像した模写絵「月に雁(かり)」が先月完成して披露されました。 75年ぶりの復活とのことでしたが、歴史を掘り起こした父親たちの尽力に敬意を表しつつ、 今まさに崋山の精神に帰る時だと感じています。 その崋山は国宝となる絵画を描いたばかりではなく、商人の心得をまとめた商人八訓を残しています。 私の祖父が、崋山と同じ田原市の出身であり、わが社の事務所には当時、 この商人八訓が掲げられていました。 月明かりに照らされた2羽の雁は、同じ目標に向かって寄り添っていく。その時に輝きを放つ。 じっと崋山の声に耳を澄ませたいです。 2020年3月9日

老夫婦が買物にやって来て、私に声を掛けてくれました。 ご主人は「お父さんとそっくりだね。」そして、ご婦人が懐かしげに 「おじいさんが亡くなる時に、大学受験と重なって大変だったと聞いていますよ。」 すでに30年以上前のことを、白髪のご婦人が語ってくれたのでした。 そのご婦人は女医さんであり、私の祖父が最後を迎えた病院で当時勤務されていたそうです。 大学入試のあった寒い季節に、祖父は体調を崩して入院しました。 それでも、私は毎日のように病院に見舞い、祖父と向き合っていました。 そして、天使のような微笑みをもって、祖父はその最後を迎えました。 また、先日叔母が余命いくばくもない時に、何人かで叔母を囲んで語り合ったひとときがありました。 その時も、祖父が亡くなる時に、病床で見舞う私の姿を思い出して語ってくれました。 叔母やそのご婦人の声を通じて「いかに生きるべきか」天からの声のように感じました。 ヨーロッパでペストが大流行した時に「メメント・モリ(死を忘るなかれ)」という言葉が語られたそうです。 その声に素直に従いたいです。 2020年3月2日

「医療とまちづくり」と題して、ねりま健育会病院病院長の酒向(さこう)正春さんのお話を伺いました。 「立派に生きて立派に死ねる街」を提言されていましたが、 現役を退いた方々の視点での街づくりに、はっと気づかされました。 定年後に社会参加して、生き生きと活動できる街。高齢者や後遺症を持った人たちにも優しい街。 そのために、病院のあり方も今までとは違って、より地域と一体になることが期待されます。 ちょうど叔母が近隣の病院でお世話になり、最後を迎えていました。 そこでは、叔母のために、お医者さんや看護師さん、家族や友人との濃密な時間が流れていました。 死に際に立ち会えた家内は、看護師さんたちと一緒に泣くことができたそうです。 叔母の死を通じて、改めて人生で大切なものを教えて頂きました。 病院や街そのものではなく、温かな人たちであり、その人たちと交流できること。 「何に価値を感じているのか」酒向さんは、ともに働く人たちに問いかけるそうです。 街の住人も同じであり、各々がそれを考えていくこと。そこに温かな交流が待っています。 2020年2月22日

末の子が20歳の誕生日を迎えました。いつものようにケーキを食べてお祝いをしていると、 突然、その場からいなくなって、鉢植えの花束を持って戻って来ました。 黄色のミモザが散りばめられた、温かく優しい花々でした。自作のメッセカードには 「お父さん お母さんへ 20年間大切に育ててくれてありがとう」と文字が打ち込まれていました。 私も驚きましたが、特に母親は感激していました。 その花には不思議な魅力があり、息子の想いがじわじわと伝わってくるようでした。 聞いてみると、その花束は、ご近所の花屋さんで、自分の想いを伝えて作ってもらったそうです。 その花屋さんも目に浮かび、息子の想いに寄り添い、それを一生懸命形にしてくれたように感じました。 早速、花屋さんにも御礼かたがた報告させて頂き、花屋さんも喜んで下さいました。 調べてみると、イタリアでは、ミモザの日があり、男性が女性に 日頃の感謝を込めてミモザを贈るのだそうです。 息子は、そんなことも知らずに、自分の意思で贈物をしてくれました。 そんな姿に、大人になったなあと頼もしく思いました。 2020年2月13日

東京ギフト・ショーという展示会でセミナーがあり、東京都墨田区の町工場である 浜野製作所の浜野慶一さんのお話を伺ってきました。 メーカーでありながら、経営理念に「おもてなしの心」を掲げていたのが印象的でした。 果たして、おもてなしの心とは。それは相手を思いやる心とも言えるでしょうか。 それは、商工に関係なく、すべての事業の土台にあるべきもの。 それでも、より問われているのが、商人だとも思いました。 どのように商品が作られたのか。その過程では、いろいろな想いが詰まって参ります。 やがて、物語となる。 しかし、今日は、その想いが伝わらずに販売されていることが当たり前のようです。 それは、お金の動きだけの視点とも言えるでしょうか。 企業経営にとって、お金の動きは大切ですが、それ以上に大切なものがある。 浜野さんは、若くしてご両親をなくす。娘さんをなくす。会社が全焼となる。 さまざまな憂き目をみますが、それが他者への優しい眼差しに変わっていました。 そのような作り手の想いを受け止めて、それを伝えることができる商人となりたいです。 2020年2月7日

子供たちの絵には、不思議な魅力があります。当店のインスタグラムでも、小学6年生の甥の描いた絵がたまに 紹介されますが、力強さ、伸びやかさ、生命力なるものが感じられます。 そんな折、NHKの日曜美術館で、お隣岡崎市出身の画家で教師でもあった山本鼎(かなえ)さんが紹介されていました。手本をそのまま写すことが評価された100年前の時代に、子供の自由な感性を重視する 児童自由画運動を展開。その展覧会が開催された長野県上田市の小学校には、 「自分が直接感じたものが尊い」と山本さんの言葉が刻まれた石碑があります。 いつしか、子供たちの自由な感性に蓋をして、教育という名のもとに 画一化したものを押し付けてしまっていないか。それは、子供だけではなく、大人も同じかもしれません。 近くにある水上ビル商店街の建物には、知的障害を伴う自閉症の花島愛弥さんの絵が 壁面に大きく描かれていますが、同じような力強さを感じます。 そのような作品を評価するのが商人の務めかもしれません。 そして、自由な感性で商売ができてこそ、正しく評価できるのだと思います。 2020年1月28日

当店はマンションの1階にあるのですが、マンションの住人の皆さんと新春餅つき会を開催いたしました。 1階の店舗部分にある3店舗の商人たちで企画運営いたしました。 商人とは、お世話になる街にとどまり続け、街作りに主体的に参画していく立場にあると考えます。 もちろん、住人たちが主体者でもありますが、その住人たちが主体者になる環境を整えていくこと。 それは、世話役でもあり、橋渡し役でもあり、主体者そのものでもあります。 その点では、より主体的になることが問われています。 いざ、開催してみると、沢山の方が集まってくれました。 特に印象的だったのは、就学前の子供たちが、重い杵で餅をつきたがる。 また、餅を触って「気持ちいい!」と歓声をあげる。 そんな時、大人たちの心も自然と開かれて、一体感を感じることができました。 餅こそ、一つ一つの米粒が結び付いて、ワンチームとなった結晶。 ふと、先人たちは、その精神を餅つきから学んでいたのかなと想像いたしました。 今年も餅のごとく、いろんな皆さんと結び付き、美味しさと楽しさを提供して参りたいです。 2020年1月17日

「男はつらいよ お帰り寅さん」を夫婦で観て参りました。 寅さんの魅力は、他者の幸せを考えている一方で、自分をわきまえていること。 そのため、求婚される場面では、いつも尻込む。 定職を持たずに放浪している身では、その女性を幸せにできないと理解しているゆえなのでしょう。 それがタイトルに通じます。 昨年末の紅白歌合戦では、松任谷由美さんの背後にいる松任谷正隆さん、 竹内まりやさんの背後にいる山下達郎さんの存在を感じました。 男性とは、女性を輝かす存在であり、また男性を輝かす存在が女性とも言えるでしょう。 いつも寅さんの恋は実りませんでしたが、渥美清さんの演技は、50年に及んで私たちの心をとらえました。 渥美さんの亡くなった後に、国民栄誉賞が贈られましたが、それは、その背後にいた ご家族に贈られたものだったかもしれません。 奥様は熱心なカトリック信者であったようですが、渥美さんも召される直前に病床で洗礼を受けられた。 実は、本当の寅さんの恋は実っていたので、あの映画は完結した。 「お帰り」とは、天国で響くお二人の声かもしれません。 2020年1月10日

米津玄師さんが「長く愛される普遍的なものを作りたい」とコメントしていました。 果たして、普遍的なものとは何か。どの世代にも、どの時代にも共感を与えるもの。 それは人間が中心であって、その人間の本質は変わらない。 同じ人間たる自分を突き詰めていくこと、自分らしく生きること、 そして、そこには他者への思いやりが付随している。他者のために自分を生かすこと。 それを愛と表現できるかもしれません。それそのものが、あるいは、それを求めていくことが、 生きて行くこととも言えるでしょうか。 普遍的なもの作ることは、音楽だけでなはく、芸術文化一般でも、そして、われら商人の最終的な目標でもあります。 そして、それを追求できる、この時代の日本は幸せなのだとも実感いたします。 米津さんは嵐とのコラボ曲「カイト」を製作した時に考えたそうです。 「今の自分は誰かに生かされてきた。自分の身の回りにいる人間、 いや遠くで自分に影響を与えて下さった沢山の方々、そのすべてにちょっとずつちょっとずつ許されながら、 『おまえはここで生きていてもいいんだ』と。」 それに心底気づけた時、長く愛される普遍的なものは生まれるのでしょう。 2020年1月5日