[長編小説] あいのかたち 〜事実〜

ショウキチさんは琥珀色の液体に目を落とし、華奢なカップの柄にその細い指を絡める。

久しぶりに聴く彼の低い声。

心から待ち望んでいたはずなのに、酷くなる頭痛と、言いようのない不安感が私を苛んでいた。

シュウくんと逃げるようにMICADOを飛び出したあの雨の日。
ショウキチさんが、いつもよりだいぶ遅れてMICADOに来た理由。

「あの日、俺は病院にいました。」

そう言って、静かにカップを持ち上げ、心を落ち着かせるように、その液体をゆっくりと喉に流し入れたショウキチさんの喉がゴクリ、となる。

彼の身体が奏でる密やかな音。

彼がすぐ隣で、手を伸ばせば触れられる距離にいる。

そんな些細なことに、私の全身が戦慄いて、細胞全てが開いてショウキチさんにむかって何かを叫ぶような、狂おしい感覚が押し寄せる。

ああ、私はこの人が、好きなのだ。

はっきりとそう理解した次の瞬間、残酷な現実が私を奈落の底へ突き落とす。

「俺には、守らなければいけない人がいます」

ことり、とテーブルの上に置かれた銀色のリングが、店内の照明に照らされて残酷な冷たい光を放つ。

ショウキチさんには、奥さんがいた。

7年前に結婚した彼女は、大学時代から彼が付き合っていた女性で、彼が独立し、自分の建築事務所を立ち上げた際にも、パートナーとして彼を支えていたかけがえのない存在。

「8年前。慎一の家であなたに会った時。自分でも、どうしようもなくあなたに惹かれている自分に気づいてしまったんです。もちろん、慎一とあなたの関係を壊す気はなかったし、自分の思いはなかったものにしようと、必死で忘れようとしました。」

あの日。

震えながら交わしたキス。

硬くてしなやかな彼の腕や背中の感触。

確かにあの時、私たちにはお互いに流れこむ何かがあるのを感じていた。

会ってすぐのあなたに感じるべきではないその感覚に戸惑い、私はそれを満たされない自分の結婚生活のせいにしていたのかもしれない。

彼の口から語られる言葉は、甘美な事実と残酷な現実。

それらが甘い媚薬と鋭い棘となり、交互に私に襲いかかる。

「でも、俺、できなくて。だから、彼女に別れを切り出したんです」

彼女は、どんな人だろうか。夢を追いかける若いショウキチさんのそばで、じっと彼を支え、見守ってきた女性。

「彼女には、あなたのことを正直に話しました。友人の妻に恋をしてしまったこと。叶うことはないけれど、今の自分には彼女しか考えられないと」

彼の言葉一つ一つに、私の中でも何かが溢れ出す。

「彼女は・・・それでもいいと、あなたを待つから、そう言って俺のそばにいてくれました」

他の女性に心奪われている彼を、やさしくひたむきな愛で包み込もうとした彼女。

「結婚を決めたのは、それからまもなくで。俺は、自分の報われない恋には蹴りをつけ、彼女を生涯愛そうと決め、彼女を選んだんです。」

彼の心を溶かした彼女。きっと凛としていて、やさしさに溢れていて、知性があって、そして誰より彼を愛していたに違いない。

「俺たちの結婚生活は順調でした。子供には恵まれませんでしたが、お互い大切なものを尊重し、穏やかな日々が過ぎていきました。しかし、半年前、全てが変わってしまった」

私は身動き一つせず、カップに両手を添えたまま、彼の次の言葉を待っていた。

「彼女が・・・交通事故に遭いました。残業を終えて、事務所から自宅へ帰る途中、交差点で信号無視の車にはねられて。出張先でその電話を受けた俺が病院に駆けつけた時には、彼女の意識はもうなくて。・・・医師からは、意識がいつ戻るかわからない、この先、ずっとこのままの可能性もあることを覚悟してください、と言われました。」

彼が何か自分の感情を抑えるように、ぎゅっと拳をにぎり、ひとつ大きく息を吐く。

「それから、彼女は目覚めることなく、ずっと病院のベッドでの生活が続いていました。今度は俺が彼女に寄り添う番なのだ、と感じ、病院の近くに自分の事務所を移し、仕事の合間に彼女の病室に行き、彼女に語りかけるようになりました。仕事のこと、もうすぐ彼女の好きな椿が咲きそうなこと、その日、俺の心を動かした出来事」

真っ白な病室で、いつ目覚めるかわからない彼女に、静かに語りかける彼の姿が、ふと目に浮かぶ。時々彼女の手をやさしくさすり、握りしめながら、彼はどんな思いでその時間を過ごしていたのだろうか。

「病院の帰りには、あの公園で一人ぼーっとするのが習慣になっていて。そんな時に、あなたを見つけたんです」

そう言うと彼は、体を私の方へ傾ける。

彼の視線を感じながら、どうしても私は彼の顔を見ることができなかった。

長くて優しい沈黙の後、声を詰まらせながら、彼が言葉の一つ一つを絞り出すように放つ。

「ゆうこさん、あなたのことが、今でも、好きです。」

反射的に顔を上げた先には、ショウキチさんの真っ直ぐな、悲しげな眼差しと、今にも泣き出しそうな笑顔。

「あなたに再会して、8年前のあの想いは、思い過ごしなんかじゃなかったと、はっきりわかった」

そして、ふと逸らされる視線の先には、鈍く光る銀色のリング。

「でも、俺にはその資格がない。あの雨の日、病院から電話があったんです。彼女が目を覚ましたという連絡でした」

もう言わなくていい。何も聞きたくない。あなたもこれ以上苦しまなくていい。

そう叫びたい気持ちを飲み込み、私はショウキチさんの苦しそうな横顔をじっと見つめる。

「俺が急いで病院へ駆けつけた時には、彼女はまた深い眠りに入っていました。医師の話では、奇跡的に脳内の状態が回復しつつあり、しばらく目覚めと眠りを繰り返しながら、徐々に覚醒する時間が増えていく可能性がある、との診断でした。」

自分の奥さんが、長い眠りからやっと目覚めるかもしれない、という話をしているのに、今にも泣き出しそうな顔のショウキチさん。急に、愛おしさが込み上げる。

「その時、俺は・・・。このまま目覚めないでほしいと、どこかで思っている自分に気がついてしまったんです。」

先に動いたのは、私の方だった。

彼のテーブルに置かれた左手に、そっと私の右手を被せる。

驚いたように私を見上げた彼の顔を、ただじっと見つめる。

あたたかくて、なめらかな、ショウキチさんの手の甲の感触を、手のひら全体でゆっくりと味わう。

ずっとこうしたかった。あなたに触れて、あなたの温もりを感じたかった。

手のひらから伝わるショウキチさんのあたたかさとやさしさ、そして悲しみが、私の中へじわじわと染み渡るように広がっていく。

何も言わなくていい。あなたの気持ちは、わかっているから。

言葉にならない私の想いを、私も手のひらから伝える。

店内はいつのまにか私たち2人だけになっていた。カウンターの中にいたはずのマスターの姿も見えない。

ショウキチさんの左手が、そっと引き抜かれ、私の手のひら上向きにさせる。
そして私たちの指と手のひらが、まるで欠けていたパズルのピース同士のように、ぴったりと吸い付き、絡み合う。

お互い見つめあったまま、どのくらいの時間が経っただろうか。

カランかラーン

突然鳴り響くドアのベルに、はっと我に帰り手を離す。

「いらっしゃい」

いつのまにかカウンターの中に戻っていたマスターの声が、私たちを現実に引き戻す。

騒がしくなる店内のざわめきの影に隠れて、私たちはまるで何事もなかったかのように、いつもの常連同士のふりをする。

「もう、ここへは来ません。あなたを、苦しめたくない」

静かに囁かれる言葉に、意図せず私の目から何かが溢れ出す。

悟られてはいけない、と慌ててコーヒーカップを持ち上げ、もうほとんど中身の入っていない液体を喉に流し込むふりをする。

今、ここで別れてしまったら。
本当にもう一生、会えないかもしれない。
あなたを、失いたくない。
どんな形でもいいから、あなたを感じていたい。
どうか気づいて。
ショウキチさん、あなたのことをこんなにも想っている私に。

ふと、隣で立ち上がるショウキチさんの気配。

「ちょっと、歩きませんか?」

あの日のように、ショウキチさんが私を誘い、私たちはMICADOを出た。

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