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【IB子育て・日々悶々】自分の子どもを「見れない」参観日

先日、子どもたちが通うインターナショナルスクールで、1時間の参観日が開催された。

参観日と言っても、面白いことに

自分の子どもがいるクラスを覗いてはいけない

というちょっと変わった参観だった。

その経験を早速3人の日本人の友人や知人たちに話したところ、全員絶句。参観の目的が自分の子どもの様子を見るのではなく、学校でどんな風に子どもたちに学びの場が提供されているかを客観的に親が知る場として開かれていると話したら、みんな口を揃えて「それいいですね」と言っていた。

Looking at Learning

というこの保護者向けプログラムは、学校が保護者に、子どもたちがどのような形で学んでいるかを共有することが目的なのだ。

【1授業1問に取り組む高校2年生の数学】

さて、実際の授業に足を運んだ様子を話そう。

生徒たちも、各教師たちも、保護者たちがランダムに乱入する可能性があることは事前に知らされていて、心構えはできている状態。

保護者は2、3人のグループに分かれて、ボードに記された教室の札を取り、子どもたちの教室を覗いて回る。

保護者たちは子どもたちにも、先生たちにも自由に質問がして構わないと言われていて、わざわざ参考の質問リストまで用意してくれていた。

二つ目に覗いたクラスは高校2年生にハイレベル数学。
  
「今日のクラスでは確率をやっている」と話した数学の先生。ペンを実際に見せながら、ある条件におけるペンの出てくるパターンがいくつあるかという確率を算出するために方法をクラスで向き合う。

教室では、1人黙々とノートと格闘する子がいる横で、男子3人組は、あーだこーだ言いながら。問題を解くために条件の絞り出しす子と、その横で関数電卓を叩きながら数字を読み上げる子がいるグループもある。

私たちが乱入してからは、いろいろな質問に回答しながら計算を続けていた生徒たち。大人からの質問にも堂々と意見を言う彼らは、意見を求められるそれに応えることに慣れている。その上で、教室を横断して、解き方のアイデアを共有していく。

黙々と数字と格闘するだけが数学じゃない

そんなことを改めて思った授業だった。

「ただ数字や文字を書いて解くのではなく、できるだけ現実にもの見せて問題を出す」と数学の先生。

なぜか、この授業を覗きながら、今放映中の「フェルマーの料理人」をすっかり連想してしまった。数学を学ぶ意義は、まさに自分たちの生活の中で学んだ知識を生かすために存在すべきだ。

さらに、IBスクールが学びの主軸に置いている「Inquiry=探究」について、改めて理解を深める素敵な時間が用意されていた。

【学校が目指す教育の本質を理解するために用意された参観日】

現在日本でも「探究」という言葉は教育のカギになっているけれど、その探究という言葉がどんなにふわふわしていて、さらにオブラートに包まれている言葉かということは、Elmer Schoolプロジェクトをやっていた私は痛いほどわかる。

ちなみに、私が子どもの学校生活を通じて日々知り得た情報や経験を、一生懸命言葉で説明しようとしても、そもそも「探究経験」のない人たちは想像すらできない人もいた。

想像できなければ、共感は生まれない。

でも一方で、探究するということは、何も学校に行く必要はなく、毎日の小さな生活の中からも、社会問題と対峙するシーンでもどこでも見つけられる。

例えば、「どうしたら毎日飲むコーヒーを美味しく淹れることができるか」というお題目を探究することも立派なInquiryだし、「この世界から戦争をなくすために何をしたらいいか」と行動を始めることも同じInquiryの延長。

ちなみに今年の3月、文科省は全国津々浦々に「探究時間を確保せよ」と大宣言したわけだが、そんな学び方をしたこともない多くの日本の学校の先生たちは、一体全体どの程度このふわふわした言葉を理解し、子どもや親たちと共有できているのだろうか

【4段階に分けられる生徒と探究の関わり方】

インターIBスクールでは、もちろん「Inquiry=探究」は、あらゆる学習のベースにあるのだが、今回のLooking at Learningの保護者むけプログラムを通じて、初めて探究にも色々なレベルがあることを教わった。

カナダのIB教育の教育者であるトレバー・マッケンジーさんは、探究教育についてとことん追求してきた人。

そのマッケンジーさんが生徒の探究との関わり方を4段階に分けて説明している。

Structured Inquiry:
生徒たちは、教師のリードに従って、一つの疑問についてクラス全体で解決に向かっている形

Controlled Inquiry
教師がトピック/課題を選び、いくつかのリソースを提示した状態で、生徒たちが自ら回答を見つけていく形

Guided Inquiry
教師がトピック/課題や質問を選ぶが、生徒たちが自分たちが自ら解決策をデザイン/作り上げる形

Free Inquiry
生徒たちは何の参考情報も得ずに、自分でトピック/課題を選び、解決策を見つけていく形

これを見た時、なんて上手に説明をしているのだろうと思った。そして探究というものの奥深さを知った。

探究は全て、好きなことを見つけて深掘りするだけだと(→つまりFree Inquiry)と勝手に思っていた私だが、この高度な探究に辿り着くために、その前段階をしっかり踏みながら探っていかないことには、やはり探究が持つその意義と意味を発揮する状態にならないということだ。

息子たちの中高の校長先生が言っていた言葉で印象に残っているのは、一つの単元を学んでいるプロセスにおいて、そのクラスが単元の始めにいるのか、そろそろ単元を終えようとしているのかでも、先生たちは生徒たちの探究の促し方を大きく変えているだろうと話していた。

例えば、生徒たちにとって初めて出会ったであろうコンセプトを説明する授業において、先生は限りなくStructured Inquiryを利用するという。しかし、まもなく単元を終える頃ともなると、生徒たちは教室さえ飛び出て、自ら課題を見つけて問題に取り組む生徒も出てくる。そのステップにおいては、観客席からフィールドを眺めるラグビー監督さながら、そこには自分で考え行動する生徒たちがいる状態だ。

また語学の学習においては、その性質上、Structuredや Controlledの探究的アプローチを取る機会が、長いあるいは多いと話す。それは、新しい言葉を学び、記憶することが習得に必要なことからだという。

こんな話しを聞いて、実際に授業を見て周り、生徒たちと対話した中で改めて探究することって目の前にたくさんあるんだなぁと思った。

そして家庭における子どもたちとの会話にも、もっといろいろなアプローチができるはず。そして私自身、仕事に取り組む際にいかにこの考え方を取り組んでいけるか、今は目下考え始めたところだ。

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