スラヴ叙事詩にみるミュシャのメッセージ②
3アール・ヌーヴォーとミュシャ様式
アール・ヌーヴォーのルーツはイギリスのアーツ・アンド・クラフツ(美術・工芸)運動で、いわば本家イギリスからの分家が各国のアール・ヌーヴォーとも言え、したがってアール・ヌーヴォーにはさまざまな別称がある。「世紀末デザイン」と呼称され、それまでの伝統的な絵画様式に反旗を翻した芸術集団である。そして、『ミュシャ様式とは、色とりどりの花や植物のモチーフをたくさん使い、これにエレガントな美女をからませ、一方で、幾何学的、抽象的な形態を随所にあしらい、時に中世風のビザンチン趣味、あるいはオリエンタリズムの味付けをした、しかし全体としてアール・ヌーヴォー風の優美な装飾様式といえる。』(ミュシャ作品集 千足伸行著 東京美術)しかしこれまでミュシャが、美術アカデミーで身につけた正確なデッサンに基づく作風でこなしてきた挿絵などの地味な仕事からはアール・ヌーヴォーのような様式はあまり見られず、『ジスモンダを機にほとんど何の前触れもなく華麗な今日に知られるミュシャ様式に変わったことはほかの画家には無いことであり、ある意味で謎である。』(ミュシャ作品集 千足伸行著 東京美術 50ページ)また私自身が展覧会へ行って感じたことの一つに、100年以上も前に製作されたものなのになぜか親近感があるという点がある。展覧会は下層階に、今日に至るまでミュシャに影響を受けたアーティストの作品が展示されており、アメコミや80年代のサイケデリックアート、ヒッピー文化やロックミュージックのポスター、またファイナルファンタジーをはじめとする日本のアニメや漫画の数々が展示されていた。特に本人の作品でも、違うアーティストの作品でも、多くの作品に共通して見られた構図が「Q型方式」と呼ばれている構図であった。円環、髪、ドレスの裾でアルファベットのQという文字を描いており、これはミュシャ独特の構図である。ミュシャがパリの美術学校に留学していた日本人学生によって20世紀初頭に日本に紹介されて以来、このミュシャ様式が今日までの日本の数々のアーティストに影響を与えたことが、ミュシャの絵が時を越えて、2020年に生きる私にもどことなく馴染みを感じる理由である。また、ミュシャ様式を築き上げた背景には、パリに出てもなお見失うことの無かった東欧的、スラヴ的な精神と感性があった。ミュシャ様式は、アール・ヌーヴォーから誕生したのではなく、『ミュシャ独自の感性や、オリジナリティーがパリのアール・ヌーヴォーに合流したということである。』(ミュシャ作品集 千足伸行著 東京美術 50ページ)
4スラヴ叙事詩
アーティストであるミュシャをずっと支えてきた東欧的、スラヴ的な精神と感性とは何か。祖国のチェコは人種的にはロシア人と同じスラヴ系で言語はチェコ語である。しかし当時は強大なハプスブルグ帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)の支配下にあり、帝国の言語政策で、学校の授業はドイツ語でなされるなど、さまざまな面でのドイツ化、ゲルマン化がなされてきた。こうした時代背景から、ミュシャがスラヴ人としての民族意識と誇りを失わずパリでの成功を捨ててまで、祖国へ帰り20枚の壁画的規模の画面からなる、大作スラヴ叙事詩を作り上げたと考えられる。パリ時代に、パリ万博でオーストリアから、パヴィリオンの壁画と呼ばれる、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の依頼を受け(当時ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア領)、反オーストリア、反ドイツ主義のミュシャだが政府からの公的な依頼であったため引き受けた。後に『私は(ボスニア・ヘルツェゴビナ館で)再び歴史的な絵に手を染めたが、今回はドイツではなく、同朋のスラヴ民族が主題であった。その歴史的な栄光と悲惨を描きながら、私は祖国とすべてのスラヴ民族の喜びと悲しみに思いを馳せた。そこで、パヴィリオンの壁画を仕上げる前に、やがてスラヴ叙事詩となるべき未来の大作を着想した。』『私がこうしたことに貴重な時間を費やしている間、我が民族は水溜りで渇きをいやさねばならなかったのだ。私は自分の才能をいかに浪費してきたかに、また本来我が民族のものであるべきものを、いかに浪費していたかに気づいた。真夜中に起きて(パヴィリオン関係の)これらの作品を見た私は、私の残りの人生をひたすら我が民族に捧げるという神聖な誓いを立てた。』(ミュシャの言葉)と残しており、パリ万博でオーストリア政府から依頼されたパヴィリオンの製作中からスラヴ叙事詩の構想が練られており、それと同時にオーストリア、ドイツ主義の作品を生み出すさなかスラヴ民族や祖国への想いが一層強くなっていることがうかがえる。また、画家なら誰でもが望むパリでの成功もミュシャ自身が本当に求めていたものではなかった。歴史書の挿絵など、自分の主義とは異なる歴史的主題の油彩も手がけていたが活費稼ぎのためであった。『外国に出てからの私は燃える心で祖国を愛した。まるで恋人のように愛した』(ミュシャの言葉)
5最後に
私たちになじみのある、華々しいパリ時代のアール・ヌーヴォーのスターであるミュシの表の一面にフォーカスされがちだが、ミュシャがスラヴ叙事詩製作にかける本当の心は当時の人々にあまり関知されていなかった。キリスト教の宗教画とは違った、東側諸国の民族画は私自身馴染みが無く、展示会に行くことで当時のヨーロッパの歴史に基づくミュシャのもう一つの顔を知ることができ、感銘を受けたので今回のレポートの課題に取り上げた。パリでの成功や安定を捨てて、祖国のスラヴ民族のために自分の才能と人生を捧げるという覚悟と情熱が、離れている間も絶えることなく、むしろ激しく募っていった。そこには人間としてのミュシャの本当のメッセージが込められており、だからこそ今日も高く評価されているのであろう。
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その他参考文献 ミュシャスラヴ作品集 千足伸行著 東京美術 2015年