The Silence


 遠藤周作著『沈黙』https://www.amazon.co.jp/dp/4101123152 とスコセッシ監督の映画"The Silence"で考えたこと。

 神はなぜ沈黙しているのか。結論的に言えば、神は決して沈黙しているわけではないと理解するのが一般的解釈であるだろう。
中学生の時に叔母の影響で教会に通い、洗礼を受けた遠藤周作の信仰はどのように作品に反映しているのか。
彼の作品はアジア人が理解しているキリスト教信仰を描いている。キリスト教のアジア的解釈とはどういうものなのか。
この作品の描く、キリシタンの信仰で、あれ?と思ったことが2つある。
一つはパライソの概念。もう一つは形(徴)を求める信仰の形だ。
「沈黙」の時代、キリシタンは幕府からの迫害にあい、信徒たちは「キリシタンは死ぬ」と自覚している。
キリシタンたちの言う「パライソ」は「パラダイス」で天国のことだが、彼らのパライソの概念は、苦しい今も神が共にいて天国であると考えている。また死ねばパライソに行けると信じており、死ぬことはいいことだとも思う。後者の方は、パードレ ジュアンに教わったということで、現在の多くのクリスチャンの考え方に共通する。多くのとつけたのはここでは詳しく述べるスペースはないが、「天国」あるいは「神の国」の概念と考え方は一つだとは言えないからである。前者の考え方は、赤子を連れてロドリゴとガルペのところにやってきた夫婦が言ったことだが、ガルペは思わず「それは違う」と言ってしまう。ここで想像できることは、クリスチャンにはなったが、パードレたちの不在で「じいさま」が洗礼をや「とっさま」が教理を教えたりしている状況で、状況的に仕方ないことだが信仰的成長に問題があると思われる。後者の形を求めるところは、一瞬、カトリックだからという部分もあるのかもしれないと思ったのだが、ロドリゴもそのことは不安であると思ったとある。
 沢野中庵となったフェレイラが、この国はぬま地だからキリスト教は育たない、日本人が考える神はパードレたちが考える神とは違う神であると語る部分は印象的で説得力がある。転んだと言われても、生きて、その地にいる人のために役に立っていることで平安を感じているように見えるフェレイラ。沢野中庵となっても、ロドリゴの信仰の師であることは変わらなかったのかもしれない。最後の審判は、神の主権である。羊か山羊かその時までわからない。マタイの25章にもある。その意味では、映画の最終シーンの仏教のやり方で葬儀をされたロドリゴの手に誰にもわからずに持っていたモキチが作った十字架のキリスト(原作には無い)、何度も転んだキチジローが終盤で胸につけていたクリスチャンの徴が、スコセッシ監督のメッセージとして受け取った。
一方で、イチゾーとモキチが処刑されるシーンでは信仰者の強さが表れている。痛めつけられても4日間生き延び、苦しみの中で賛美歌を歌うシーンは衝撃的だった。見ている知人クリスチャンたちは皆沈黙していたが、私だったら、共に歌うと思った。
きっとその場で見守っていた人々も心の中で共に声を合わせたのだろう。
 死ぬことは、苦しみのない世界、年貢も無い世界でモニカにとっても今の苦しみから解放されるからか、怖いものでは無いようだ。殉教は天国での栄光が約束されているのである。死をも恐れぬ信仰は、立派で尊くもある。しかし、これ以上殉教者を出さないように、フェレイラもロドリゴも踏み絵を踏むのである。沈黙を破って踏んでもいいと語りかける神の声。これはギリギリのところで優しく語る「母なる神」の声である。規則通りに罰する「父なる神」との対比的な「母なる神」が遠藤のキリスト教感として物語に表れている。
 フェレイラの語る、キリスト教が根付かない日本を語るのも印象的であった。日本は沼。恐ろしい沼地。ザビエルが教えた「デウス」も日本人は勝手に「大日」と呼び、いつしか神の実態を失い、今後も神の概念を持たないだろう。この土着化は失敗なのか。「神」の概念と同様に「罪」、「死」も日本人が西洋キリスト教の概念を100%理解するのは難しいと宮本新は彼の論文”Embodied Cross"で述べる。遠藤のケノーシス的キリスト教理解は、西洋キリスト教が考えるべき問題であるとも述べている。そもそも、西洋キリスト教も初代教会の頃からすると、ヘレニズム化され、時代を経て多様な文化と共に存在しする。東西分裂、宗教改革、啓蒙主義、高等批評学などで基なるものは共通でも、形式的には多様化している。
 殉教か、棄教か。そもそも弾圧や迫害があるから起こってしまうことだ。現在の日本では、信仰の自由が保障されているが、弾圧された時代に生きていたら、信仰を私はつらぬけるのだろうか。
棄教したが、実際は信仰を捨てたわけではなかったロドリゴ、フェレイラもそのように受け取れる。何度も転ぶチャラい役所に描かれているアンジローもやっぱりクリスチャンなのだと思えた。一拷問にあっても棄教せず苦しみに耐えイエスの元に行った人々の信仰の形とは対照的だが、どちらが正しいということは人間には言う権利がないのだと思っている。
 日本に入ってきたキリスト教について、土着化をキーワードに今さらに深く考えている。


*2018年に神学研究科で履修していた「現代神学3」(小原克博教授)の課題についてのメモ
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?