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生きた愛したはたらいた

人生の半分以上を過ごした我が街モリーオこと、盛岡であれこれ思うこと。

深夜便で香港から帰国し、大阪から花巻まで空路で移動し、春だというのに寒い盛岡にたどり着いた3月29日の昼。バスターミナルから帰宅する途中、この街で働くことが決まり、最終面接と移住のためにこの街に降り立ったのが平成初期の同じ日だったことに気づきました。
海外留学のために買った大型のキャスターつきトランク(キャリーバッグではなくてまさにこれだった)を引きずり、北上川を渡って今の職場に向かった時、自分がどうなるかなどとても想像がつきませんでした。

大学は出たものの、米国留学時にバブルが崩壊し、現在に至るまでの長期不況が始まったばかりの当時。4年間で何をしたいのか決められず、主専攻だった中国語も大陸短期留学でのある経験で現状に失望して、卒業後も続けて学ぶことは決めたものの中国では働くまいと思っていたので、仕事は外語とは全く違う職に行き、縁あってこの街にある職場に就職しました。
そして、気がついたら四半世紀が経過していました。
仕事はこれ以上詳細に書くと各方面にバレそうだし、不満も多いので愚痴ばかりになるので割愛しますが、よくぞこの歳まで給料も高くはないし、決してホワイトとは言い難い環境で働いてきましたよ自分!と改めて思います。
男女比もアンバランスでセクハラもパワハラもいじめも経験し、不況による方針転換と人員カットで今でも理不尽な扱いを受け、去年は高ストレス判定を食らってカウンセリングも受けましたが、それでも心折れることなく、冬の寒暖差に苦しみながらもここまで来れたのは、冬の寒ささえなければ今住んでいる街の居心地が比較的よく、自分に合っているからなのかもしれません。

学生の頃の留学経験もあって親元を離れることには抵抗はなかったし、東北新幹線のターミナル駅であったことから、帰省も気楽にできていいかもしれないと選んだこの盛岡は、東北一の都市である仙台やさらに上にある青森と比べたらこれといった特徴もなく、遠方在住の友人には「仙台だっけ?青森県盛岡市?」などとしょっちゅう間違われました。また、地元で知り合った人には、関東出身で大学卒業までこちらと縁がなく就職で初めて住んだという話をすると「まーあ、わんざわざこんな遠くまで来て…」といまだに言われます。(これは『あまちゃん』でもネタにされてましたね)まあ、この地の人と結婚して所帯も構えていないし、子供も産み育てておらず、フラフラした生活をしているように思われているので、未だにヨソモノに見られているのでしょうかね。もちろん当人はそんな気もないし、「関東系東北人」を名乗っていますが、これだけ長く住んでいりゃもうすっかり岩手県民ですよ。
とまあ、特徴がないとか、なにもないとかいろいろ書いていますけど、もし本当になにもないのなら、さっさと仕事やめて実家帰ってますよ。思うような業務につけなかったり、いじめられたり、押し付けられる仕事があまりにも多すぎてストレスを貯めるようでも、仕事を終えて一歩出た外に救いがあったのです。街で出会う映画や本やカフェや、もちろんそれぞれの場所で出会った人々も自分の支えになってくれて、ここまで壊れずになんとかやってこられました。

もともと仕事の糧としていた本については、90年代当時の大通商店街に3店あった書店ー第一書店、東山堂ブックセンター、そして今や知名度も全国区となったさわや書店本店ーを回ることで十分事足りました。特に、90年代半ばにさわやのプロデュースで本店隣に誕生した絵本とコミックの専門店MOMOは、居心地のいい書店でお気に入りでしたが、10年ほどで営業を終えてしまいました。この店のみならず先の2店も撤退し、ジュンク堂書店がオープンした今も実はあまり変わっておらず、必要に応じて回っては本を購入しています。行動範囲を広げれば、駅までにはポノブックスとさわや書店フェザン店&ORIORIが、市役所を越えて橋を渡ればBOOKNERDがあります。大型店でお目当ての1冊を探すことも、個性派書店で未知の1冊に出会うこともできます。書店や本をめぐる事情はこの25年でかなり変わりましたが、それでも好きな本が入手でき、知らない本との出会いも呼んでくれる環境が盛岡にあるのはありがたいことです。

そして、盛岡に来なければ出会えなかったものがあります。
それが香港映画です(笑)。
今でこそ全国的に公開本数も激減し、東京や首都圏でもアクションや中国との合作映画がかろうじて観られるという非常に残念な状況なのですが、来たばかりの頃の映画館通り(かつては複数の映画館が沿道に立ち並び、人口密度に対してのスクリーン数が多いということで名付けられた通称。現在は3館7スクリーンが営業)ではメジャー作品と共に単館系映画も観ることができ、東京上映から数ヶ月遅れでも観られるのはありがたいと思い、レイトショーに通っていました。そこで『黒薔薇対黒薔薇』や『恋する惑星』などが上映され、何気なく観に行ったらあまりの面白さに衝撃を受けました。
折しも時は返還を見据えての香港ブーム。やがて上映館から「地元で香港映画を上映しませんか?」という呼びかけがあり、盛岡で香港映画(といっても台湾も大陸も、中華圏ではないけど韓国もありましたが)の劇場上映を行うサークル「香港電影恋戀隊」に結成から参加しました。サークルは1996年から2004年まで8年間活動し、解散はしてしまいましたが、ここで出会った方々や得た経験は貴重なものばかりでしたし、インターネットの普及によって全国にいる香港映画ファンの方々とも出会えました。もちろん、これがきっかけで様々なジャンルの映画を劇場で観るようになりました。
この20年で公開状況もすっかり変わり、日本映画が強くなってしまい、映画館はシネコンが主体となり、独立した建物の映画館も古びてしまいましたし、「映画の街」としては今後どうなってしまうのか心配ではありますが、盛岡出身の大友啓史監督の活躍や、市内や県内でロケが敢行された映画も増えてきています。(NHK出身の大友監督といえば土曜ドラマ『ハゲタカ』の演出を手がけていたことでも知られていますが、それだけで贔屓しているわけじゃなくて、実はジョン・ウーを師と仰いでいる香港映画ファンであるということで、もう同志だと思っちゃっています。あはは。閑話休題)〈映画の力〉プロジェクトを始め、これらの映画をバックアップする団体もあるし、日本映画から盛り上げていくというのは手ですよね。そしていずれ映画全般に広がって、この街が本当の意味で「映画の街」になっていけば嬉しいです。将来はこの盛岡で香港映画や台湾映画の特集上映ーつまり映画祭ができたらいいなという夢がありますよ、実は。

この他にもカフェやアート、語学教室などでいい出会いもありました。つまり盛岡の持つ文化度に救われてここまで生きてこられたし、働いてこられたし、加えて冬の寒さのしんどさに高血圧になってしまったけど、それさえ我慢すれば(というか寒さがなければ)、この街は快適であり愛しさがあるというわけなのです。欲を言えばもう少し小規模公開の映画を上映してくれたり、春水堂や貢茶レベルでいいので、ティースタンドが街中や駅ビルにできてくれたら…って言ったらキリがないですね。ええ、コーヒーが飲めない人間には、この街のコーヒータウンアピールにはちょっと不満があるのですよ。
(後は花巻空港から飛ぶ台湾便の増便と、香港便の定期就航が実現したらもっといいけど、それ盛岡じゃなくて県に要請することだしね)

まあ、それはともかく、なんとかここまでやってこれました。
今後、フルで働ける時間も限りはありますが、体を壊さないように健康には気を遣い、仕事で溜まったストレスを街で解消しながら、面白いことがあったら積極的に首をつっこみ、自分でもいろいろやっていきたいです。
今年も文フリで新刊出したいし、イベントも出たいし、クラブにも行きたいですからね(お酒じゃなくてダンスの方のクラブね)
こんな感じで、いつもの通りとりとめもないのですが、長年住んでいたこの街に改めて感謝します。

最後にもう少しだけ。

ボクは、ボクの住む街を愛したいー手あかにまみれた一冊の本のように。

これは、長年さわや書店が使用し続けてきた大通商店街マップをもとにしたブックカバーに添えられた一文です。
初めてさわやの本店で文庫本を買い、この文を読んだ時には心がグッと掴まれました。こういう風に住む街が愛せたらいい、と。
何のかの文句は言ってしまうけど、それでもこの街が好きなのだな、と今になっても思います。

まあ、そうは言っても盛岡イチバーン!にはならないのが面白いところ。
出身地の千葉の内陸部もやっぱり恋しいし、台湾の淡水や台北や台南、そして香港も盛岡と同じくらい大好きな街です。好きな街はたくさんあった方が、旅した時もやはり楽しいですからね。


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