見出し画像

世界が幸福になっても個人の幸福はマジありえない

これは『シン・仮面ライダー』の感想である。
題名がどこか宮沢賢治っぽいが、まあ気にしないでほしい。
初見でまず出た感想がこれだった。
そしてその後が続かなくて苦労して、あれこれ考えてこの感想文に至るのであった。

ミーハーですがなにか

私は石ノ森章太郎のファンであり、幼い頃から東映特撮とアニメで育ってきた。でも自分をオタクといえるほどの自信も矜持もなく、実に中途半端な石ノ森&東映特撮ファンである。むしろミーハーだと思ってくれ。
どれだけミーハーで中途半端かわかるよう、参考に若い頃書いた記事を貼っておく。時代に合わなくなってしまった単語や文言も多少あるが、どうかそこは許してほしい。

私が初めて石森章太郎(当時)の名前を知ったのは『秘密戦隊ゴレンジャー』と『がんばれ!ロボコン』の2作品で、最愛の作品は『サイボーグ009』。このあたりも過去にblogでさんざん語り散らしているので、ここではふれない。興味があればついでに見ていってほしい。

さて、この映画はオタクの大先輩的存在といえる庵野秀明氏が監督し、往年の日本のエンタメコンテンツを現代に再構築した『シン・ゴジラ』(総監督)『シン・ウルトラマン』(企画・製作・脚本)に連なる系列なのだが、カントクくん(庵野氏)の代表作である『シン・エヴァ』は観てないのでそのへんはスルー。
こんなスタンスで感想を書いてみるので、おそらく世間一般的に出回っている感想とは異なると思うし、見当違いであってもそこは笑って許してほしい。先の2作同様ネタバレで書くので、そのへんもご了承あれ。

コミュ障対変態、その果てに

先の2作はそれぞれ、人類が初めてゴジラorウルトラマンに遭遇した世界線で作られていて、世界線的には今作でも踏襲されている。だけどこちらは原作ものであるので、ほぼその通りの展開であるのが違いであり、主人公及びメインキャラの名前と敵組織の通称はオリジナルと変わらない(昔東映で製作されたリブート2部作も主人公二人の名前は同じらしい。しかし未見)だから基本設定の話はここではしない。

その上で驚いたことが2つある。
まずは敵組織の正式名称がSustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling、略してSHOCKER(以下ショッカー)ざっくり訳すとコンピュータによる知識を埋め込んだ改造により持続可能な幸福を(追求する)組織ってアンタなにそれ…
私見だが、これまでのライダーシリーズに登場する敵組織には、カルト集団の匂いを感じるところが多い。オリジナルは確かナチスの残党により結成されていたし(当時は戦後26年、まだその爪痕はあった)先立ってリブートされたBLACKの敵組織ゴルゴムはオリジナル(ドラマ版及びマンガ版)でもかなりカルト度が高かった記憶がある。だから成人後に直面したカルト集団による犯罪や大量虐殺等の事件には戦慄を覚えたし、その勢いでどんな新興宗教にも不信と疑念を抱くようになった。しかもマンガ版のショッカーは終盤で日本人総背番号制による家畜化という野望を打ち出していたのだから、まるで近年のどこかの政府がやってることと同じで(強制終了)

しかし組織の目的が幸福を求める者の救済とはいえ、その中核を成す人工知能が弾き出した「幸福を求める者(=オーグと呼ばれるサイボーグにアップデートされる素質がある者)」が最大の絶望の淵にいる者たちだったとしても、なぜ人間を憎むろくでもない輩ばかりなのか、というのがツッコミどころ。…だからこそこの組織はカルトになるのか、という力技的に無理やりな結論でとりあえずは納得はしたが。
この組織の上級幹部たるオーグの皆さんはそれぞれの目指す幸福のために世間的に見れば悪事の限りを尽くすし、皆それぞれの美学を持っているが、これがどう考えても変態にしか見えない、昆虫だけに。完全変態。

そこに身を投じたのが緑川家の人々であり、さらに巻き込まれたのが本郷と一文字なのだが、ドラマ版では頭脳明晰スポーツ万能な天才科学者、マンガ版ではそれに加えてええところのお坊ちゃん(執事がついていたのだよ、確か名前は立花…)だった本郷が、この映画では頭脳明晰スポーツ万能なのにコミュ障(緑川ルリ子談)という設定になっていたのがもうひとつの驚き。彼を演じているのが池松壮亮なので、ドラマ版の藤岡弘、が演じたのと同じキャラクターになることはないとは思っていたけど、明朗快活ではなく、ここまでナイーブで繊細なキャラクターになるってのは、まあ、時代なんだろう。コミュ障でも優しさがあり暴力を恐れる性格には島村ジョーやジュンが重なるし、肉体の暴走が心で制御できず苦悩する姿にジローを見たりと、他の石ノ森キャラとの共通性も感じる。

コミュ障呼ばわりでホント申し訳ないが、コート姿がカッコえかった本郷。
右はなんか某ビル的かほりもあるハチオーグ。彼女も当然変態。いただいたカードより。

そんなわけでこのコミュ障対変態の果てしなき戦いは、組織に手を貸しながら「ショッカーの子」として生まれ育ち、そこから逃亡するルリ子を本郷に託した(一応良識に目覚めたがそれでもやってること言ってることは酷い)博士と、組織に残って全人類を激しく憎んで完全変態を遂げようとする息子イチローとに分裂することで緑川家のファミリーアフェアに収束していく感を覚えたのだが、そう思ったのは私が直近で『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(これも世界の危機とファミリーアフェアが同時に展開する映画)』を観て、かなりハマっていたからであることは言うまでもない。もちろんこの2作に関連性がないのは承知の助。
そしてショッカーはブラックゴーストと同じく、幸福の追求云々とか言いながらも人間の愚かさを増幅させて暗部をさらけ出した組織であると思ったが、その描き方が良いか否か、みなまで言わぬこととする。

まあ、そんな方法で世界全体が幸せになっても、それはいわゆる無力化とか家畜化ってことで個人は尊重されないから、個人の幸せはありえないのだよ…と、うまく題名につなげてみた。そういうことだ。

心の傷を癒し、空白を満たしなさい

カントクくんのオリジナルへの愛と強いこだわり、それによって生じる矛盾や綻びやら暴走だったり、先日放映されたメイキングドキュメンタリーで示されたアクション撮影での現場の混乱や苦悩等々、この映画に関する批判は今ネットを見ればたくさん出ている。
もちろん、こちらも言いたいことはたくさんあるけど、そういうのは長くなるからまた脇に置いといて、この項では個人的に好みな事柄を述べる。

そうね、キャストはかなり好みだった。
池松・浜辺美波・柄本佑(以下えもたす)がそれぞれ本郷・ルリちゃん・一文字であるが、先に挙げた本郷はもちろん、他の2人も役にフィットしていた。物語を大きく動かす力を持つルリちゃんを浜辺嬢はクールかつエモーショナルに演じていたし、一匹狼気質だけど義侠心を持って信念で動く一文字を飄々と演じたえもたすもよく、うっかり惚れかけた(笑)。一文字はひとりだけ昭和的といわれていたのをSNSで見かけたが、私は香港映画脳なので、好きな映画である『男たちの挽歌』のマークが彼に少し重なった。
ええ、異論は思いっきり認める。すまん、本当にすまん。

↑これは読んでて面白かった記事。
パンフレットでインタビュアーを務めた木俣冬氏が記事を書いているけど、キャスト面からの注目ってカントクくんの映画では今まであまりなかったと感じたので。

公開までに発表されたキャストはこの3人を含めて数人だったので、封切直後に観て他のキャストの豪華さに驚かされたのは言うまでもない。シン実写版系列を制覇した斎藤工&竹野内豊コンビ(しかも後者は全作とも政府関係者役)『キューティーハニー』以降のカントクくん監督実写長編に全て出ている市川実日子(しかも夫役は巨災対で同僚だった塚本晋也監督)メインキャスト唯一の東映特撮OB松坂桃李、朝ドラ『カムカムエブリバディ』で時代劇の切られ役からハリウッドに渡ってアクション監督となる役を演じた(偶然にも今作のアクション監督の田渕さんも同じキャリアだった)本郷奏多、ファンなので顔が出なくても声を聞いたらすぐわかった大森南朋、再見で声を聞いてやっと分かった仲村トオル、そして二度観てもあまりにも出番が一瞬過ぎて全くわからない安田顕…
全部ではないにしろこれだけ役者の名を挙げてみて、改めてこう感じた。
これ、NHKの土曜ドラマみたいなキャストじゃね?と(実際キャストに土ドラの主演を務めた人が数人いる。なお内容に全く関係がないこの項の見出しは、あるキャストが主演を務めた土ドラの題名2作が元ネタとなっている)
そんな中で最も強烈だったのが、シンウルトラで「浅見なんでパンツじゃなくてスカートなんだ、わーちょっとスカートでそんなアクションするなよ、だからセクハラって言われるんだよ全くもーう」と私に言わせ頭を抱えさせた禍特対の浅見を演じていた長澤まさみ演じるパリピのオーグ。…そうだな、あんな酷いパリピのところに本郷を派遣したら彼は絶対退くだろうから申し訳ないがあの処置で正解。

ライダーシリーズは特に平成以降若手俳優の登竜門となり、映画監督も務めるクリエイターや大河ドラマの主演なども輩出しているけど、ここ数年は誕生50年ということもあり、カントクくんの他に白石和彌監督によるBLACKのリブートも豪華なキャストだった(実は未見である。早く観ねば)
要するにお祭りだったから、こういうキャストの変態(まだ言うか)演技合戦を楽しむのも悪くない。

地元館では公開直後のゲストビジットでえもたす登壇。
残念ながら仕事があって観に行けず。

「ふたり」の孤高が出会い、更なる「ふたり」が彼方へ走り去る

最初の「ふたり」

今ではなかなか見かけない重化学工業の巨大工場や、どこか台湾の嘉義郊外を思い出させる木更津の海辺などオリジナルに即したというロケーションや、マスクから衣裳まで人物デザインのセンスもよい。昭和のテイストにこだわりすぎているといわれているけど、多少の違和感は覚えてもそんなに昭和っぽくは感じなかったなあ。
そして、これは意識していたか否か、というところなのだが「ふたり」というシチュエーションが最初からラストまで意識されていたように思えた。ルリちゃんと本郷のタンデムによるバイクの逃走から、本郷と緑川博士、ヒゲ男二人、ルリちゃんとマユミ(=ハチオーグ)、ルリちゃんとイチロー、そして本郷と一文字…といった具合。ライダーとオーグの対決も基本的には1対1だから、これも「ふたり」だ。
それでいてメインの3人は「孤高」の存在の「ひとり」であり、それが「信頼」で結ばれて「ふたり」となり、たとえその片方が消えてしまっても、想いや願いはプラーナとなってもうひとりに「継承」され、ひとりになっても決して孤独ではなくなる…というような流れだったのかと、観終わってロビーに掲出されていた3枚のキャラクターポスターのコピー(記事ヘッダ参照)を眺めていて考えた次第。これまでの実写版シン系列では、脅威に対するのが政府や特務機関等の組織であったけど、これは脅威が組織であり、それに(政府的な大きな力を時々頼りつつも)小単位で立ち向かうという様式でもあるので、そう思えたのかもしれない。

人工知能ケイや「第0号」の存在などに別の石ノ森作品を思い出させる要素があったり、昔読んだマンガ版の記憶に展開が似ていたので、カントクくんのリスペクトはマンガ版にも重きを置いていたのねと、石ノ森ファン的にはうっかり感慨深くもなったが、どうも続編をやるならやはりマンガ版の後半部(ドラマと別展開だったので当然映像化されていない)で、という構想がカントクくんにはあるらしい。マジか。
…それをやるとしたら、やっぱりまた付き合うのかもしれない。

最後に。
この感想全体はいいところ中心に挙げているので褒めているのか、薦めているのかと思われるだろうけど、決してそんなことはない。不満も欠点も感じたけど、先ほども書いた通りそれは他の人も言っているからね。
実は「シャーロック・ホームズと仮面ライダーは誰がどんなアレンジをしても文句は言わないし、作品を尊重して鑑賞する」という自分なりの決め事を昔から持っているので、こういう感想になった。以上!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?