洗う、という魔法。
洗っても洗っても手が汚れている気がしてずっと手を洗ってしまう潔癖症もしくは強迫性障害。
それとは程遠く、外出後の手洗いを忘れてそのまま物をつかんで食べることも少なくない私だが、時々、汚れたものに触ってしまった時や、ふと「そういえばお金って汚いよねぇ」と思い出した時は、急に手をよく洗ったりもする。
さらに言うと、手に関してよりも喉、つまり「風邪などの菌が口から侵入したのでは」という恐れの方が生じやすくて、公共の場所などで近くの誰かが咳やくしゃみをしているのに気が付くと、その時に感じた嫌悪感をひきずったまま帰宅して、やっきになってうがいしたりする。
もちろんそうした嫌悪感は、直接には風邪などの菌に対してなのだけれど、煎じ詰めればその対象は、他人、見知らぬ人々への嫌悪感、あるいは目に見えないもの全般への恐怖感のような気もする。
特にしつこく手洗いをしたり、しつこくうがいをしたりしてしまう時には、実は、単純な衛生に対する観念だけではなく、もっと根深い感情があるのではないだろうか。
近くの人がくしゃみをした時、「寒いのかしら、大丈夫かしら?」と心配する心の選択肢も人間にはあるというのに、真っ先に「ゲッ」と思ってしまうのだから…当然、そういった恐れや嫌悪感自体も、嫌なものだ。
さてある時。確か満員電車に乗ったか何かで、例の「何かしら汚いものを吸ってしまったかもしれない」という恐れが生じ、帰宅後うがいしていた時だったと思うが、ふっと思いついたことがある。
「そうだ、ばい菌を洗い流すだけでなく、他人のくしゃみに対するこの嫌悪感、そしてそんな自分に対する嫌悪感も、いっしょに洗い流すと思えばいい」と。
するとその瞬間、嫌悪感がすーっとなくなったように感じた。少なくとも気が軽くなったのだ。
マザーテレサは、病人の体のウジを迷わず素手で取り除いたとどこかで読んだ。
私だったら嫌悪感と恐怖が障害となり躊躇なくできないだろう。しかし聖人にはなれなくてもいいので、せめて、いつも、手洗い、うがいは、自身の嫌悪感もいっしょに洗う時間にしたい。
そういえば、私たちは神社に行けば手を洗い口をすすぐが、あれも、衛生上のことだけではあるまい。なぜならどんなに手がキレイでも洗うのが儀礼であるし、逆に菌が付着していたとしても、あの程度の洗いで菌が落ちるわけでもないからだ。そこでは明らかに心の清めが求められている。
「洗う」をはじめ、「片づける」「食べる」「飲む」など、さまざまな行為には、目に見える方と目に見えない方、両方の意味があるとすれば、その目に見えない方の意味に気付いていくことは、とても楽しいことだと思う。