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「分かる」なんて簡単に言えないが、その痛みを認めることは出来るんじゃないか

安易な共感は、人を傷つける。

分かってはいるけれど、
大切な人ほど 傷付けたくないから
寄り添いたいから、
「分かるよ」 と言ってしまう。

でもきっと、その痛みは
誰かが理解できるようなものでははなくて
というか、全ての感情は
本人以外が共有できるものではなくて、
私はいつも、それが悲しい。

どんなに大切な人や大好きな人でも、
私はその人にはなれなくて、
2人でひとつにはどうやってもなれなくて、
私はいつも、それが寂しい。

私だけの痛みで私が泣いているとき、
「分かるよ」 「自分もそういう時あったよ」
と言ってくれる人がいて、
それに対して救われる時もあれば
「それはあなたが感じたあなたの痛みで
私の痛みとは同一視できないよ」 と
突き放したことを言いたくなる。
私はいつも、それが後ろめたい。
そして、その後ろめたさに
さらに傷付く羽目になる。


どこまでも他人で、
だからこそ どこまでも愛おしい誰かを
守りたいとき、
涙を拭きたいとき、
温めたいとき、
「傍にいたいよ」と伝えたいとき。

そういう時に渡せる言葉は
あまりに少なくて、愕然とする。

誰かを傷付けて グサグサに刺して
殺してしまうような言葉の方が
沢山あるように感じるのは、
私の世界に偏りがあるから、という
理由だけでは納得できなくて、つらい。


誰かに寄り添いたいとき、
「分かる」 と言うのはリスクがある。

しかも、そのリスクは行動を起こす私
(「分かる」という側)ではなく
何もしていない
「分かる」 と言われた側に生じる。
(傷付いたり後ろめたさを背負ったり
させられてしまう。かもしれない。)

こんなのを書いている私も気をぬけば
「分かる」って言ってしまう時もあるし、
世の中には 「共感は他者を救います」 とか
「共感しておけば間違いないです」 とか
そんな情報が溢れている。 それ、本当に?


「分かる」 という安易な共感は、人を傷つける。(そのリスクを内包している。)

私はそう思っているけれど、
じゃあどうしたらいいんだろう?
グルグル考えて行き着いた、
暫定的な答えは 「認める」 ということ。

大切な人が傷付いた、と知ったなら
「傷付いたんだね」
大切な人が怪我をしたんなら
「ここが痛むんだね」
大切な人が泣いているんなら
「涙が出るんだね」

本来、それ以上、私には何も言えない。

「傷付いたんだね、可哀想にね」 などの
感情は、「分かるよ」と同じでリスクになる。

追い打ちをかけたい訳では無いから
相手から話してくれるまでは
「そっかあ、今、そうなんだね」 と待つ。

これって結構、こちら側は負担になる。
よく分からないことを分からないまま
持っていないといけないし、
自分が思ったことも持っていないといけない。

だから、自分に余裕がある時、かつ
相手が本当に大切にしたい人である、という
限定的な状況でしか そういう対応は
取れないかもしれないけど、
「そこにあなたの痛みがあるんだね」と認めたい。

自分の過去の痛みと同一視してしまいたくないしなかったことにはしたくない。
ただ、「そこにあること」 を認めたい。

それで生き延びることができる一瞬は
ある気がする。
それで継げる一息がある気がする。

自分の意見や感情は、
求められた時に言えばいい。

私に余裕があるのなら、私は待つし
あなたの痛みがそこにあることを知っているよ。
その存在を認めて私も僅かだけど一緒に持つよ。
と、言わない空白で示したい。

私は誰かの人生に何かを与えられるとは
思って生きていないし、
「分かる」 なんて簡単に言えないが、
その痛みを認めることは出来るんじゃないか

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