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【ふなログ175】「ご縁」を重ねてきたから今の自分がある。

最近つらつら考えていたことを
書きます。

「ご縁」について。

ご縁によって私は生かされてますが、
ご縁によって傷付くこともあり、
その感情に「虚無感」で
蓋をしてきたこともありました。
しかし結局、
ご縁の数々で生かされているのです。

木の根のように。

1. 幼少期の孤独、親友との出会いと別れ

私は子供の頃から
友人を作るのが絶望的な程
ヘタクソでした。
まして言わんや恋人など尚更。

「自分のことなど
理解してくれる人は少なくても、
深く理解してくれる人がいればいい」

と思いながらも

「そんな少数派って、
この世にどのくらいいるの!?
絶望的だよね。」

と、深く殻に閉じこもる
時期がありました。
→この信念はおそらく、
その後の人生に暗い影を
落としていくことになる

特に、小学生時代の頃。
元々幼少期は
ほとんど喋らない子供だったらしく、
一人で「プラレール」(電車のおもちゃ)
とかガンプラ作って
一人で黙々と遊びながら

箱庭のような狭い世界で
ストーリーを組み立てて
電車やモビルスーツを動かして遊び、

寝る前に連続ドラマのような
続きモノのストーリーを
想像して組み立てながら眠り、
それが2週間くらい続き、
自分の世界に閉じ篭もっていました。
(どんなストーリーだったかは、
ハッキリ覚えてません)

次に、ファミコンを買ってもらった後は
学校から帰宅するや否や没頭。
他人はそこに介在することなし。

小学校時代、同級生を自宅に招き、
一緒にゲームすることはありましたが、
数年後高学年で気付いた事実に
ショックを受けました。

ゲームで遊んだ後、
別の遊びをしようとしても
その時点で帰る同級生たち。

遊ぶ目的は「僕」ではなく
「ゲームで遊ぶこと」だったわけです。

要するに僕は
「友人」ではなく
単なる「ゲームセンター」に過ぎなかったという…

薄々分かっていたことでしたが、
そのショックを誤魔化すかのように、
ひたすらゲームに没頭してるだけでした。

「なぜ僕を見てくれないのか?」
という、自分の在り方について
真剣に問いを立てたり考えることもなく。

しかしその後、
ゲーム以外でも

沢山の楽しみや
喜びを共有できる
「親友」と呼べる友人が
できました。

自分とは真逆なタイプで、
最初は互いに
敬遠していたのですが、

あるキッカケで意気投合してからは
外で活動的に遊び、
色々な悪戯をしたものです。

しかし、
僕の悪いところは
遠慮なく言ってくれる存在で、
そんな彼のことを
とても信頼していました。

しかしその2年後、
私の家は転勤で引っ越すことになり、
その友人とも別れることに。

その友人と接することで
多くの友人に恵まれたのですが、
そこでその関係性に
終止符を打つことになりました。

2. ご縁が失われても、それはどこかで生き続ける

当時は
携帯もスマホも
メールもない時代で、
同窓会は10年後に
一度だけありましたが、
それ以来の接点は全くありません。

しかし、今はその関係に
不思議なもので
それ程固執していません。
あれだけ良い思い出と
固い絆を感じていたにも関わらずです。

もう、
それぞれの人生を生き、
目の前の人生に
必死で生きているから、
過去を振り返って
懐かしむことはあっても

そこに執着して戻る気持ちは
ないのでしょう。

それを哀しむべきなのかどうかは
今の私には分からないことだし、
また何かのご縁で会うことがあれば
それはそれで嬉しいのだと思います。

人間関係というものは、
そのタイミングと
その瞬間で生まれるものであり、
そういった絶妙な
ご縁によって生じるものです。

そして
ご縁は予測できるものでなく、
ある時「突然に」訪れて
ある時「突然に」失うのかもしれません。

失っても
後悔や悲しみを
感じることはあっても、

その瞬間のご縁と
その時の関係性こそが尊い。


もしかしたら失ったようで
緩く薄くご縁は
実は続いているのかもしれず、
またあるタイミングで
ご縁が繋がるのかもしれません。

それは敢えて
陳腐な表現をすれば
「神のみぞ知る」話
であるのかもしれず
現時点では分からない。

けど、
そのご縁は
どこかで生かされ
良き思い出として
感情が蘇る種類かもしれないし、
または何か
お互い助け合うご縁かもしれない。

3. 失う感情を誤魔化さず、ご縁を紡いでいく

幼少期に味わった
「自分という人間」ではなく
「一緒に遊んでいる対象」
が目的だった人間関係も
空虚でも一つのご縁
であったことには変わらず、
(教訓としてかもしれないけど)

親友と共有した楽しい日々もまた、
大切なご縁で、
そのご縁による思い出は
今でも生き続けています。

強いご縁や出会いによって
人生が大きく変わるというのは
とても喜ばしいことで、
大切にしていきたいご縁ですが、
それがいつ失われるか、消えていくか?
それとも続いていくのか?

は、ご縁を紡ぐ
お互いの努力かもしれないし、
しかし努力とは無関係なところで
消えていくのかもしれない。

たとえ緩いご縁でも
そういうご縁に恵まれるよう
日々を生きることは、
自分の気持ち次第でできると思うのです。

一昔前の私だと
「強くご縁を望んだとしても、
いつか儚く消えていく。
だからご縁など期待しない方がいい」

というある種の「虚無感」
を持ち続けていました。

しかし
それは単純に
傷付きたくないだけの
偽りの「虚無感」
だったのかもしれません。

そんな「虚無感」
はある側面で
自分を守る面は
あるかもしれませんが、

傷付く感情はその場では
誤魔化せても
潜在的には眠ってます。
何かの拍子に
そのような感情が顔を出す時、
またその感情に
対峙していかなければならない。

誤魔化せば
またどこかで繰り返す。

その辺り
自分の中で明確に言葉に
できそうにありませんが、

「虚無感」で感情を誤魔化さず
自分が紡ぎたいご縁を大切に
そして新たなご縁にも恵まれるよう

まだまだ
拙い所作でもどかしいですが
強い緩い関係なく
世の中への働きかけていくことを、
「残された人生」の中で
やっていくと決めています。

辛い感情だけでなく
喜びの感情も
多くの「ご縁」には含まれており、
その「ご縁」を重ねてきたからこそ
今の自分があります。

張り巡らされた
木の根のように
数々な「ご縁」を
様々な感情とともに
背負っています。

いま出会っている
「ご縁」には必ず意味がある。
そして
これから出会う
「ご縁」にも必ず意味がある。

「ご縁」を大切に
紡いでいく自分であり、
プラスの痕跡を
「ご縁」ある人に残し続けていく
自分であるよう
これからも生きていく。

仕事、プライベート
関係なく
全身全霊全力で

しかし
あまり力まず
取り組んでいく所属です。

(今回全く笑いを取る場面がなく後悔…)

有り難く
大切にさせて頂いております。

これまでの「ご縁」と
今の「ご縁」
そして
これからの「ご縁」を。。

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