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”周りの環境や人を大切にする” 当たり前の積み重ねが遠くに連れて行ってくれる

何者でもない自分と向き合う日々

わたしは、この春で社会人3年目になった。

社会に出ると、想像以上に無力で何も知らない自分と向き合うことになる。はやく仕事で結果を出して、社会に爪痕を残すんだと意気込んで社会に飛び出したのに、限られたことしかできない自分に苛立ち、焦り、不安な気持ちでいっぱいだった。

不安が募るほど、自分という存在を認められることで安心したかった。会社の名前や肩書といった世間一般で評価される「モノサシ」に頼り、仕事で成果を出して、高いビルの上で仕事をすれば、誰からも認められる”何者か”になれると思っていた。

”何者かになろうとする。何者かになってないと不安になる”

常にそんな焦りがどこかにあった。

いつの間にか自分の信念ややりたいことよりも、人が決めた基準で生きていることに気がついた。「これは誰のために仕事をしているのだろう?」「仕事ってなんのためにするんだ?」「自分って何者なの?」と問いかける毎日を過ごしていた。

あるとき、たまたま入った本屋で「新世代エディターズファイル 越境する編集ーデジタルからコミュニティ、行政まで」という本を見つけた。​​「編集者」に焦点をあて、雑誌やwebなどのメディアの編集をはじめ、まちづくりやイベント、プロモーションやブランディングなど領域を横断した活動を行う国内外61組の編集者たちを紹介しているものだ。

もともとPOPEYEやBRUTUSといった雑誌に憧れて、編集者を目指していたこともあり、思わずその本を手にとった。

その中でも、黄色のロゴが印象的な株式会社E(E inc.)のページが目にとまった。クリエイティブを軸としたブランディングカンパニーで、ブランディング、メディア製作、商品企画、空間演出など幅広いクリエイティブを手掛ける会社だ。代表は石野亜童さん。

本書で紹介されていた石野さんが手掛けたプロジェクトのなかにUNIQLO「京都ゆにくろ」のグランドオープニング施策があった。

これはユニクロ京都河原町通り店がリニューアルオープンするにあたり、ユニクロが京都にプレゼンテーションするような意図を込めて、京都限定で配布されたzine『京都ライフジャーナル』の企画編集、さらには交通広告ビジュアルのプランニングや制作を手がけられたもの。


京都ライフジャーナル

「京都ゆにくろ」がリニューアルされた当時、私は京都に住んでいたので、実際に店舗が変わっていく様子や配布された『京都ライフジャーナル』を手にとっていた。石野さんの仕事は、自分の生活に影響を及ぼしていることだった。

私は「あの京都ゆにくろのリニューアルを手がけられたのか」と驚き、他には何をされているのか?興味をもった。調べると大学時代に何度も応募しては落選してを繰り返し、憧れ続けた「京都音楽博覧会」のクリエイティブディレクションやメンズファッション&カルチャー誌『THE DAY』の創刊をはじめ数々のメンズ誌を手がけられてきたりと、自分の追いかけてきた文化を創っていことが分かった。

自分に影響を与えるモノやコトを創り出している石野さんは、まさに「何者か」を手に入れている人のように思った。

人の人生に影響を与えるような”大きな仕事”をされている石野さんは、何を大切にしているのだろう。石野さんのInstagramやコラムを覗くと、「お日柄とご縁に感謝」「夕日を嗜む」といった日常を大切にしている姿や記事に綴られている文章から繊細で、日々感じていることがあるのが伺えた。勝手に豪快なんだろうと想像していた私はカウンターをくらってしまった。

石野さんがどのようにその信念やスタイルはどのように作られたのか。何を大切にされているのかさらに知りたくなり、話を聞いた。

石野亜童(いしの・あどう)
1978年鹿児島県生まれ。雑誌編集に携わったのちブランディングカンパニーに入社。
その後『THE DAY』の編集長兼クリエイティブディレクターに就任。同誌を退いたのち、自身のクリエイティブカンパニー「E inc.」を設立。ブランディング、メディア製作、商品企画、WEBディレクション、空間演出など幅広いクリエイティブの分野で活動中。
株式会社E / E inc.
Instagram:@adoishino

高く飛ぶための蓄積

石野さんのキャリアは、友人の薦めで応募した女性ファッション誌『Zipper』のライターからはじまったという。そもそも、ライターという職業も知らず、400文字の原稿を書くところからスタート。そこから原稿の内容は認められるようになったものの、ライターではなく通っていた古着屋のバイヤーを目指すようになったという。キャリアの歩みについては、こちらのインタビューで詳しく伺える。

一度辞めた出版業界に『Zipper』編集部時代の先輩の一声をきっかけに、戻ることになった石野さん。

当時を振り返り石野さんは「編集部の先輩からふたたびお声がけいただいた分、気合いは十分だったしとにかくやってやろうと夢中で仕事してましたいたね。“メンズ誌ぜんぶに自分のクレジット(名前)が載るように”って鼻息荒くガツガツ仕事してました。夜な夜な同世代のスタイリストとかカメラマンとお酒飲みながらアツく語ったりもして」と話す。

「任せてもらった期待に、仕事でお返しするぞと必死でした。そうやって一つひとつのお仕事に取り組んでいると、おかげさまでいろんな企業やブランドさんから指名をいただけるようになって。そこから本誌企画のページも担当させてもらったり」フリーランス同士の繋がりや他の出版社の編集者とも知り合い、さまざまな媒体から声をかけてもらえるようになったのだとか。

編集者として20代を駆け抜けましたね。20代の後半には過労でぶっ倒れたりもしたなあ。生命保険に入ったのはそのころ(笑)。

笑って話す石野さんだったが、大人になってそこまで本気になれることってあるのかと衝撃だった。

目の前のことを愚直に取り組んだからこそ、できることが増え血肉となり自分のスキルや人間力として蓄積していく。石野さんも400字の原稿を書くところからコツコツ出来ることを増やした結果、今の活躍に繋がっている。

相手を想いやる”筋”

「先輩からお声がけいただいて制作会社をつくって、そこからさらにお声がけいただいてブランディングカンパニーに。そこで2年間ほど程学ばせてもらいながらかなり広い領域の仕事をやらせてもらいました。その後ふたたび、フリーランスの編集者として『BRUTUS』や『POPEYE』などに関わらせてもらっていました。」

ブランディングの会社に携わるきっかけも、出版業界に戻るきっかけも石野さんのキャリアの節目には「タイミング良くお声がけいただいたんです」といつもご縁が巡ってくる。

「一番大事なのは、お礼がちゃんと言えるとか、ズルをしないとか、筋を通すとか、“人として”みたいなことなんじゃないかな。それさえ出来ればどこでも大丈夫だと思うんです。しっかり目の前にきたチャンスをそれ以上で返す。それは、チャンスを振ってくれた方への感謝の形でもあるし、それ以外の人へも貢献することにもなる。どんな仕事でも共通する当たり前のこと」

スキルとかそういうこと以前に、周囲に助けてもらっていることを忘れずに、お返しする。石野さんに「ご縁」が巡ってくるのは、相手への敬意を大切に感謝することを忘れない姿勢が信頼を生んでいるからなんだと分かった。

自分の理想ばかりを追い求めて、目の前のことを蔑ろにしてしまいがちだ。私自身も、理想ばかり気にして、できることを増やすより理想とできない自分の差を嘆くのに必死だったのかもしれない。

「ある日なにかが劇的に変わることはあると思います。それは、それまでにどれだけの高く飛ぶための蓄積があるからによるんだけど。高く飛べる瞬間はいつ訪れるか自分ではわからない。ふとした仕事中の出来事かもしれないし、誰かに声かけられて気づくことかもしれないし、気にしてなかった別々の点が繋がった時かもしれない。バラバラだったシナプスが接続されてしまったような衝撃を感じるためには、どれだけの“溜め”があるか、自分の内側にむけて積み上げてきたものがどれだけあるか的なことにかかってきてるような気がします」

”コツコツ地道にできることを増やして、周りの環境や人を大切にする。”

シンプルだけどすごく大切なことを教わった。自分にないものを羨んだり、欠けていることを埋めようと必死になって周りに助けてもらっていることを忘れて傲慢になってしまう時がある。そんな時は、一度立ち止まって「敬意をもって、感謝を忘れない」に立ち返ろう。


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