見出し画像

読書感想文がきらいだ

読書感想文が苦手だ。というか、嫌いまである。
小学生の頃の夏休みの宿題、毎度読書感想文の宿題が出るたびに嫌気がさし、母に散々書き直しされては泣きたくなった。
中学に上がった後も似たようなことをやらされて、ぐったりしていた。が、ここ最近はそんな課題は出なくなった。いえーい、最高。

でもけして本が嫌いでも、文章を書くのが苦手で嫌いなわけでもない。
むしろ昔から自他共に認める本の虫だし、文章を書くのが嫌いだったらnoteなんてやってない。苦手でもない。むしろちょっと得意なほう。文字とめちゃくちゃに戯れるのは大好きである。

存在を消したいぐらい嫌いな読書感想文の話を今どうして持ち出したかというと、今小学生の弟が読書感想文を書いているからだ。
大変そうだなあ。ちなみに彼も感想文は嫌いである。

そんな彼を見ているとふと、「わたしはなぜ読書感想文が嫌いなのか」という疑問が浮かんだ。
本を読むことも文章を書くことも好きなのに(得意なのに)、どうして?
今更感はあるが、小学生の頃から多少なりとも大人に近づいた今のわたしならば、丁寧に分析できる気がした。
そうして、わたしは読書感想文が構成する要素を自分なりに考え、その中で自分が吐き気を催す不の要素を選別してみた。

最初に補足しておくが、この記事においての「読書感想文」は、いわゆる小学生が夏休みにやるような提出用の読書感想文をイメージしてもらいたい。例えば、課題図書があるような、そんな感じ。
わたしの読書感想文への嫌悪は、ほぼ小学生時代の思い出から成り立っているので、その時の思いが不満の大多数を占めている。


1.本に対して、必ず感想を抱かなければならないところがきらい

感想文を書くための本を読もう、とする時、わたしはどうしても「この本を読み終わる頃には、何かしらこの本に対して意見なり感想なりを抱かなければ」と思っていた。というか実質そうでなけばならない。
感想がないなら感想文は書けないからだ。
そんな思いはプレッシャーになり、本を一ミリも楽しめなくなる。
感想を抱こうと思うほど感想は出てこない。
面白い本も面白くなくなってしまう。

感想を抱こうと思いながらする読書ほどつまらないものはない。
そもそも感想はぽんと生み出すものじゃない。少しずつ自然に生まれてゆくものだ。

本当なら、「まずは一回読んでみよう」の姿勢が理想…なんだろうなと思う。
でもそれでも、やっぱり「読書感想文用の本」と思ったら、もうダメなのだ。
結局、"それらしい"感想が抱ける箇所を探す、という読書の仕方になる。
うええ。反吐が出る。
そんなの本に対して失礼だ。
…と思いながら、やっぱりそうやって本を読む。
罪悪感を感じながらする読書ほど最悪なものもない。
いや、読書ともいえない行為だ。単純に文章をなぞるだけの行為である。

2.「それらしい感想」しか受け入れてくれないのがきらい

読書感想文に、本を批判する内容を書く子供がいるだろうか。
わたしは多分いないと思っている。いたら握手したい。わたしもそんな子供でありたかった。

つまらない本はつまらない。当たり前である。
万人が面白がる本はない。これも当たり前である。
課題図書がすべて、自分にとって面白くなかった年の絶望は凄まじい。
批判したいわけではないが、でもここが好き、みたいなポイントも挙げられない。困った。

そうする時どうするかというと、わたしは素直に面白くないという感想を述べて…というわけではなく、いわゆる「それらしい感想」を書いていた。一つ前の項目にも、「それらしい感想が抱ける箇所を探す」と書いたと思う。それをベースに組み立ててゆく。
とても良く言えば(ひねくれた言葉で言えば)、読み手(ex.先生)のニーズに合わせた文章を提供するわけである。

幸いにもわたしは「文章を書くのが得意」だったのである。「それらしい感想」を「わざとすぎない程度」に書くのはそんなに難しいことではない。
心の内ではもやもやでいっぱいだったけれど。

…と、そんなことをしていた小学生時代が過ぎ去った後、なにかのタイミングでわたしは作文を親に見せた。多分、中学校での読書感想文だったかもしれない。
すると親は「こういう文章には、いつも自分の本心を書かないね」と言った。
見抜かれていたのだ。多分小学生時代の課題は、それを見抜きつつも、とりあえず文章にはなっていたからGOサインを出してくれていたのだと思う。
言っておくが、わたしはそれに別に不満はない。むしろ多分、その当時「本心を書きなさい」と言われていたら、「これが本心だよ!!」と逆ギレしていた。確実にそうだ。
「『本心ではない』けど、書かなきゃいけないから頑張って書いた、これでもう終わりにしたい」…という本心を汲み取ってくれていた親に感謝したい。

もちろんこの記事は、残念ながら本心である。
提出用の課題に本心を書くのが苦手、と言ったほうが良いのかもしれない。

3.「私だったらこうする/こう出来ない」がとてもきらい

これは、読書感想文が嫌いな理由とはちょっと違うかもしれない。
読書感想文あるあるについての話である。
そのあるあるとは、「私だったらこうする/こう出来ない」構文だ。
「私が主人公だったら、きっとこうしていた」「私が主人公だったら、きっとこんな行動は出来なかった」がとてーーーーーも嫌いだ。
どのくらい嫌いかというと、それを書けと言われたら教室の窓を壊して回りたくなるぐらい嫌いだ。

思えば、あの例文の発端は国語の教科書(小学生の)だった。
学年が上がるのと比例して、あの例文への嫌悪感が増した。ちなみに現在進行系で増している。

…まあ、「私が主人公だったら、きっとこうしていた」は百歩譲れる。
でもそれで…例えば、「私が主人公だったら、こういう手立てでそのトラブルを回避したと思う」という提案を感想文に書くような子、あんまり居ないと思うのだ。
だいたい、前述したうちの後者「私が主人公だったら、きっとこんな行動は出来なかった」が多い。わたしはそれが!!すごく!!嫌いなのだ!!
なんで自分で書く文章で自分サゲをしなくちゃならないの。

…もちろん、本心からそれを書く子がいることは知っている。別にそのような子を否定して言っているわけではない。
そしてもちろん、わたし自身も心からそう思う時もある。例えば、古代中国の思想家たちの話を読んだ時とか。
機転ととんちはわたしにはないエッセンスなため、非常に憧れる。

でも、わたしはわざわざ、「わたしにはそんなこと出来ない」なんて書きたくない。いつかそんなことが出来るかもしれないし、そうでなくとも、わたしなりの別の手立てで、同じようなことが解決できるタイミングがあるかもしれない。
これはなんというか、わたしの変なプライドが邪魔しているという結論になるのかもしれない。でも、わたしだってやれば出来る子YDKなのだ。
わたしが考えつかないような考えをその人が考えられるように、
その人が考えつかないような考えをわたしが考えられるかもしれない。
別にわたしは、その主人公より愚かだというわけではないのだ、けして。
とにかく、わざわざ人の目に晒す文章で、そんなこと書きたくない。

…やっぱりプライドの問題?


…と、不満を垂れ流すのはここまでにする。
改めて見ると、いわゆる「ひねくれた小学生」だったなあと思わざるを得ない。でもこれらは未だに思っていることでもあるので、いわゆる「ひねくれた高校生」でもあるわけだ。
しょうがない。これがわたしという人間の本心である。わたしにとってはこれが通常。別にわたしはわたしを、ひねくれた人間だなんて思っていない。
先生はなんとなくそう思いそうですけど…。
ああ、なんだか書いたらすっきりした。これで心置きなく、読書感想文に対してまっさらな気持ちでいられる気がする。
要するに、この要素をそぎ落とせば、わたしにとって心地よい読書感想文になるわけだ。何かと忙しい夏休みだけど、時間を見つけて、「ひねくれた読書感想文」を書くのもいいかもしれない。

まとまりがなく、かつ不満たらたらの文章をここまで読んでいただいたことに感謝したい。
貴方がもし読書感想文が嫌いな子供だったのなら/今も嫌いだったなら、貴方なりの苦手ポイントも聞いてみたいところではあるが、とりあえず握手。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?