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あいまい無趣味|ふあんクリエイターの推理日誌

わたしはこのままでよい

「趣味は◯◯です!」

とか

「わたしは◯◯が大好きです!」

とか

「◯◯活動をしています!」

と間髪入れずに熱中していることを宣言できる人を、大変うらやましく思っていた。そしていまも、たまに思う。

わたしには、ない。さがせばあるのかもしれない。あえてさがすものなのか、その前に、ふと、趣味の定義は何だっけ?ということに気づいた。そこでいくつか辞書を参照してみたのだが、当てはまるようなことがないように思われる。

自分に対して「だから何なのだ」という気持ちになってきた。趣味はこれです、と言えても言えなくても、いいではないか。何か困るのかい?おそらく困ってはいない。

以前、ちょっとだけ困ったことはあった。誰かに「人生、損しているね」と言われたのだ。雰囲気で「そうかもしれませんね」と答えたような。でも損って何だろう。相手の意図もわからず、確かめるほどのことでもなく。そう言われてもピンとこず。きっと、生きかたや、性分が異なるだけなのだ。


何だろう。自己紹介の機会では役に立ちそうだ。また、宣言できないと、なんとなく充実していない「気がして」しまう、ほかの人はもっと世の中をたのしんでいる「気がして」いるのだ。そもそも、ほかの人って、誰だろう。誰を想定しているのだろうか。あやふやな他人像に、ひとり相撲するあやふやな自分がいるような、いないような。

書いていたら、わたしに対しての少し恥ずかしい言い訳が出てきた。それは、こどものころ、親から逐一否定された経験を意外と根にもっていることだ。

(心の声)「親が◯◯だったので・・・」

これは、現状がうまくいっていないとの認識のときに、ひそかに発芽する厄介なやつである。見つけ次第摘み取ってしまうのだけれど。あの経験さえなければ、いまごろ心のままに大らかに軽やかに生きて、満たされていたであろうわたし、という幻が見えそうになってしまうのだ。

いやいや、わたしはいまからでも、日常でたのしさをつかまえていくのですよ。そして、気持ちが落ち着いてきたところで思いついたのが

特に決まったものはありませんが、その都度、機会や状況に応じてたのしそうなことを試しています。ちなみに、いまは◯◯をたのしんでいるところです

である。いろいろ試してみることが趣味なのです、とかね。いいじゃないの、うんうん。

でも、やっぱりはっきり言えるものがあるっていいな。これは偽らざる気持ち。素晴らしいことだし、自分を端的に知ってもらう方法の一つだと思うから。ああ、うらやましいな。

かといって、特定の何かを宣言できないわたしが劣っているわけではない。自然にしていよう。

そのうち何かに熱中しだしたら、それはそれで面白いな。

[つづく]

うさぎのおやつ代になります。(いまの季節は🍎かな)