165 水中キャンディ

昨晩、水の中にいる夢を見た。ときどき見る夢だ。
海の中でも川の中でもない。透明な透明な水の中。
水があまりにも澄みきっているので、水の中ではないかもしれないと思う。
そうだ。だって、水の中だったら息ができない。

でも、ときどき目の前が揺らぐから、やっぱり水の中だと思う。
息はできるけれど、身動きが取れない。水草になった気分。

水の夢から覚めたときは、いつも指先がつめたい。
ふんわりと揺れる浮遊感が心地よい夢なので、もう一度見たいと思う。
だけど、紅茶を飲んだら夢の感覚はほとんど消えている。

現実の世界では、身動きは取れるけれど息苦しいときがある。
酸素はあるのにうまく吸うことができないのだ。

例えば、仕事をしていて立ち止まったとき。
私がしている教育の仕事は、可能性を信じることだと思っている。
でも、努力はいつも報われるとは限らない。心を尽くしても、救えないこともある。
その事実は知っているはずなのに、いつも信じて願ってしまう。
そして、その事実を再確認することが起こったとき、私は言葉を失い、息ができなくなるのだ。

知り合いの医師が言っていた。
「全力で仕事をしたら、あとできることは祈ることだけなんだ」

彼は、数えきれないほどの「再確認」をしてきたのだろう。

先生の研究室には、いつもキャンディが置いてあった。
理由を聞くと、彼は少し笑ってこう言った。
「はずかしいんだけど、これはお守りなんだ」
「お守り？」
私は首をかしげた。先生は話を続けた。
「ここにいると、昨日挨拶した人と突然別れを突きつけられることがある。倒れて運ばれた人を全力で助けようと思っても、願うしかない状況もある。そして、そんなことのあとでも回診しなければならないときはある。僕はね、泣きそうなときに甘いものを口に入れると、涙が止まるんだ」

色とりどりのキャンディ。桃色、黄色、橙色…。
ころんとまんまるで、明るい色のお菓子たち。
それが全部、彼の涙に見えた。

そんなことを思い出したので、水の夢を見た日の夜、彼に電話をしてみた。
6コール目で出た。
「やぁ」
しわしわの声。たぶんねむりかけていたのだろう。
話すことが特にないことに気づいたので、電話を切ろうとすると、彼が話してくれた。
「前に…君だったっけ？ジャズを勉強したいって言ってたの。ジャズが聞けるお店に行く？」
「私じゃないですし、行きたくないですね」
そう言うと、彼は笑い出した。
「失礼失礼。電話してくれてありがとう。元気かい？」
「歩いたり、立ち止まったり、たまに走ったりしています」
「なによりだね」
「たまにですが、今日先生はキャンディを手に取ったかしらと思います。そうじゃないといいな。今日だけじゃなくて、明日も明後日もそうじゃないといいなと思います」

水の中にいる夢を見たときは、なぜかいつも先生のキャンディを思い出す。
息はできるけれど動けない。涙の代わりのキャンディ。

先生はすでにしわしわから脱した声で言った。
「ありがとう。この前減ったキャンディを見てふと思ったんだ。仕事で出会った人の－家族でも恋人でも友人でもない人の－未来を願うのは、なんというか…とても尊いことなんじゃないかって。」

私は、携帯電話を持ったまま自分の足を見ていた。
そして、気がついたら私は水の中にいた。揺らぐ空間。透明な水。
私は今、泣きそうなんだと気がついた。

「でも、息ができないときもありますよ」
声が潤まないように気をつけて言った。

先生はひと呼吸置いて
「そうだね。誰かを大切に思うのは、素敵でさみしくて時につらくて…でもやっぱり素敵なことだよね」
と言った。

電話を切ったあと、私はしばらく天井を見た。天井もやっぱり水の中だった。
そして先生の言葉を頭の中で反芻するうちに、ひとつの思いが浮かんできた。

もしかして、私はこれまで尊い時間を過ごしてきたのではないか。

学生の夢を聞いて、自分にできることを探し、進んできた。
生徒が目標を達成したら心から喜び、失敗した時は心から悔しかった。
私の至らなさを保護者に指摘されて前を向けなかった日も、思いが叶わずうつむく生徒を見て胸がいたんだ日も。涙が出ないように歩いて、息を止めた夜も。

そんな日でさえ、尊い時間だったのではないか。

努力はいつも報われるとは限らない。心を尽くしても、救えないこともある。
それでも私は、可能性を信じる続けるだろう。
精一杯仕事をして、あとは祈るだろう。

それがたとえ思い描いたとおりにならなくても、いつか尊い日だったと思える時がくるかもしれない。生まれ続ける願いを胸に、これからも歩いて、立ち止まって、たまに走ろう。

澄んだ風が涙をなでるやさしい夜だった。

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