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防災ブラチャリリ6 〜筑後川の治水利水と記念碑めぐり〜

気象予報士の加藤史葉@WeatherDataScienceです。
防災に関する設備や記念碑などをめぐり、防災・減災に関する知識・興味を広げていく『防災ブラチャリリ』シリーズをnoteで公開しています。

私の育ち故郷、福岡県久留米市のシンボルであり、九州最大の河川である “筑後川” をメインテーマにした特別編第2弾のブラチャリリ。
前編では、筑後川の上流部にある下筌ダム・松原ダム見学に伺い、両ダム誕生の歴史『蜂の巣城闘争』と、令和2年7月豪雨の際のダム運用について公開しました。

今回後編では、筑後川流域の治水利水設備や、治水利水に奮闘した歴史を伝える石碑をめぐります。

それでは、防災ブラチャリリ 〜筑後川の治水利水と記念碑めぐり〜 行ってみましょう!

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【筑後大堰】@久留米市安武町

今回のブラチャリリは、久留米から筑後川流域を遡上し、下筌・松原ダム見学でゴールするという行程を、久留米在住の旧友ミヨシがプランニングしてくれました。

11月某日朝、ミヨシの車に乗り込み、最初の目的地である筑後大堰へ。

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『堰』とは、ダムと同様、貯水を目的とする施設です。堤体が15m以上の高さがあるものをダム、それより低いものを堰といいます。
つまり、堰はダムのミニver.ということです。

堰は、見た目は水門のようですが、運用はほぼ逆。
水害時に堤防となることが役割である水門は、平常時はゲートが開いていて、洪水時にはゲートを閉じる運用をしますが、
堰はダムと同様に、平常時はゲートを閉め貯水し、洪水時にはゲートを開けて、流水を制御する運用をします。

筑後大堰は、水道用水や農業用水を確保することも大きな役割のひとつ。
水道用水については、筑後川中流域だけ留まらず、水源の乏しい福岡都市圏への供給にも重要な役割を担っています。

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資料引用:独立行政法人水資源機構筑後大堰管理事務所パンフレット

ちなみに、ゲートが閉まっていることが堰の通常状態ですが、筑後大堰の両側には、筑後川を遡上する川の生き物(アユやウナギやカニなど)のための専用水路(魚道)が設けられているとのこと。
この魚道も含め筑後大堰を全体を見学したかったのですが、午後の予定が詰まっていたので今回は諦め、管理事務所でダムカードもらって、筑後大堰を後にしました。

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【福岡導水取水口】@久留米市高野

筑後大堰から7[km]ほど離れた福岡導水の取水口に到着すると、大掛かりな機械と車と重機とで数人が何やら作業を行ってました。
訊いてみると、令和2年7月豪雨の際に取水口周囲に流れついて溜まったゴミの除去作業中とのこと。

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九州一の大都市でありながら、市内を一級河川が流れていない唯一の政令指定都市、福岡市。
その福岡市をはじめ、北は宗像市、西は糸島市まで、福岡都市圏の水道水の約1/3は、この取水口から取り込まれる筑後川の水なのです。

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資料引用:福岡地区水道事業団パンフレット

ミヨシ曰く「福岡空港とか福岡市内の商業施設のトイレに “洗浄には再生水を使っています” ってシール貼ってるのは、福岡市は水源が乏しくて、常に節水しないといけないから」
そういえば高校時代、福岡都市圏から通っている友人たちが、給水制限や断水で大変とか言ってた時期があったけ(平成6年渇水)。

福岡都市圏約240万人の水道用水の入り口を掃除する作業員の方々に敬礼!

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【筑後川防災施設くるめウス】

『筑後川発見館くるめウス』とは、1953年の筑後川大水害(昭和28年西日本水害)の記録を伝え、筑後川の歴史や、筑後川がもたらす恩恵と水害リスクの両面を学ぶことができる、筑後川防災啓発施設です。

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筑後川の治水利水の歴史を伝える展示。
江戸時代当時、約2年に1回のペースで発生していた洪水と、繰り返すかんばつに苦しんできた原野、筑紫平野。
日本有数の穀倉地帯である筑紫平野の現在の姿は、筑後川から取水する農業用水路を開削したり、筑後川三堰など治水機能も備えた利水施設を造ったりと、
知恵と技術を駆使しながら暴れ川に立ち向かった先人たちが、勝ち取って、今人へ継ぎ残してくれた、遺産そのもの。

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明治以降は近代的な治水工事の歴史がスタート。
日本の近代化に協力してもらうため、明治政府から招聘されたオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケ氏により設計され、1890年(明治23年)に完成したデ・レーケ導流堤は、130年もの時を経て、現在も、彼が意図した筑後川水運航路維持という役割を果たし続けているという…
コンピュータが無くても、世紀を耐える構造物を造った先人の計算力と技術力に敬服するばかり…

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昭和の筑後川治水は、未曾有の大洪水だった1953年の筑後川大水害(昭和28年西日本水害)を機に見直され、大きく前進。
この未曾有の大洪水から4年後、筑後川水系治水基本計画が策定され、これに基づき松原ダム・下筌ダムが整備されたりしました。

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筑後川は1964年(昭和39年)に水資源開発水系に指定され、1966年(昭和41年)に策定された『筑後川水資源開発基本計画(フルプラン)』に沿ったダム等の大規模な開発が推し進められた結果、治水・利水が施された安心安全な生活を送ることができる現代に至ります。
一方で、地球温暖化の影響により、昭和の時代に予想し得なかった激甚な豪雨災害が頻発化していくことが予想されています。

平成29年7月九州北部豪雨令和2年7月豪雨のような甚大な自然災害発生時にはどう行動するのか、災害が迫ってない平和な日常のうちに備えておくことを、地域住民で連携して実践していきたいですね。

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くるめウスで面白いと思ったのが、1953年の筑後川大水害(昭和28年西日本水害)の写真に体験談を添えて、後世に伝え残していこうという試み。
大水害で助かった人たちが、当時の写真から呼び起こされた記憶を、思い思いに付箋へ書きつけていました。

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筑後川に住む生き物を展示するミニ水族館もありました。

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小さな水槽で泳ぐクルメウス(正式名称:ニッポンバラタナゴ)も観察して、くるめウスを出発💨💨


【筑後川治水記念碑たち】@久留米市百年公園

くるめウスを出て筑後川沿いを百年公園方向へ歩くと、明治時代に建立された、筑後川の治水工事完了を記念する石碑が並んでいるのが見えてきました。

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筑後川に向かって左から、明治36年12月建立の『筑後川改修記念碑』
これに彫られている漢文の細かい文章について解説しているブログより内容を要約すると…

筑後川決壊は、文政8年(1825年)から慶応2年(1866年)の41年間に12回発生。明治22年の決壊は特に甚大で、被害者の救援は困難を極め、筑後川改修は必須だった。
国は、明治16年に筑後川の測量を開始、明治20年に改修工事着手、明治36年に改修工事完了。
山県有朋内務大臣と西村捨三土木局長による指揮と奨励は、工事成功の大きな力となった。
昔は各藩の利害が対立していたが、協力こそが互いの利益につながることを知った福岡・佐賀の両県人による協和の精神により治水工事が実現した。
この記念碑は、明治維新後初めて体系的に国家の手によって遂行された筑後川治水工事の概要を伝えるものである。

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筑後川改修記念碑の隣には、明治39年建立の『餘澤千歳』と彫られている石碑があります。
上述ブログの解説によると、
「工事の成功がお上のお手柄と記録されとる筑後川改修記念碑けしからん!地元の人たちの苦労と努力のリアルな物語もきちんと記録して後世へ伝えていく餘澤千歳の石碑も建てるけん!」
みたいな経緯で、地元出身の田中新吾県会議員が中心となって建立したそうです。

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餘澤千歳の碑文(こちらも漢文)の内容を要約すると…

文化年間(1804~1817年)、楢原平左衛門という者が初めて治水策を考え、しばしば藩庁へも進言したものの、大規模な土木工事となるため、なかなか事業に着手できず、そのうち彼は死没した。
楢原平左衛門の外孫であった田中政義は、祖父の意志をつぎ、筑後川治水の実現は自分が成し遂げるべき使命と考え、日本国内を歩きまわり、地形や川の水勢を測量したりと、寝食を忘れるほどの熱心に調査を続けた。
嘉永3年(1830年)大洪水が起きたとき、田中政義は被災地の救済活動に尽力しつつ、川流模型を作り治水の具体策をもって藩庁へ工事を要望したが、巨額の費用がネックとなり、議論が進展しなかった。
そのうちに明治維新となり、議論が打ち切られてしまった。
明治になって再び水害が頻発するようになり、福岡県庁は田中政義を内務省へ送り、自身の治水策をもって陳情させた結果、明治19年、ついに改修工事実施の運びとなった。
しかし、工事費用の半分の重い負担を命じられた流域自治体は、お互いの利害が衝突し話がまとまらなかった。
この悶着状態に対し安場保和福岡県知事が鉄槌を下し、明治20年4月、ようやく改修工事着工。明治36年に改修工事完了。
積年の悲願を達成した田中政義は、明治36年12月、政府から藍綬褒章を授与された。
田中政義をはじめ諸氏の功繍と思徳は永遠に記録されるべきであるとし、碑を筑後川の水辺に建てて後世の人たちに伝えることにした。
筑後川の洋々たる流れを見るとき、田中政義など諸氏の功徳を思い返さねばならない。

”餘澤” とは “余沢” の旧字体で「先人が残してくれた恩恵」という意味です。
この石碑のタイトルになっている “餘澤千歳(よたくちとせ)” の意味を「千年残る先人が残してくれた恩恵」と解釈して良いものか、筑後川まるごと博物館という市民団体へ問い合わせてみたところ、事務局長の鍋田康成さんから以下の回答をいただきました。

「千年先まで残るこの大事業この偉業を、千年先まで伝えねばならない」
「この川の恩恵を受け流域が千年といわず長く栄えてほしい」
などの思いを、筑後川の古名『千歳川』に掛けているのではないかと考えます。

江戸時代以前、筑後川は “千歳川” という名前の他に、洪水により一夜にして流域が荒廃してしまう “一夜川” と呼ばれたりもしていました。
暴れ川で世話の掛かる川でも、流域の人たちに愛されてきたたくさんのエピソードが残る、筑後川。
餘澤千歳の碑文に込められた先人たちの思いをしっかり受け止め、引き続き筑後川を愛しつつ、緊急時には自身と大切な人の命を守る行動をとり、
先人たちの偉業と思いの伝承バトンを繋いでいければと思います。

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【山田堰】@朝倉市山田

久留米を出て、メインイベントである下筌・松原ダム見学へ出発!

筑後川沿いを上流へ向かって走る車窓から見えた朝倉の三連水車
筑後川から引いてきた水が流れる力だけを動力に、毎分約6トンもの水を高所の耕地へ揚水する、日本最古の実働水車です。
流水を観察して、こんな精緻な動力機械を造ってしまう、約230年前の江戸時代の技術者、天才過ぎる…

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車窓を眺める夫「なんか石碑があった!」
車を引き返してみると、数基の石碑を囲う『水神社』がありました。

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鳥居の向こうに見えるのは、日本で唯一の傾斜堰床式石張堰である山田堰
事前にリサーチしておらず、本当に偶然に石碑を見つけて立ち寄ったのが、このとっても希少で尊い山田堰との出会いでした。

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石畳の山田堰の左側は、山田堰から引き込む筑後川の水を耕地へ導く『堀川用水』取水口。
いずれも江戸時代1663年に設置され、その100年後、古賀百工の主導による堀川用水の拡幅・延長と山田堰の大改修がなされ、1790年に現在に残る姿となって完成しました。

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明治21年建立の堀川紀功碑。
“紀功碑” とは功績を記した石碑のことです。
漢文で彫られた碑文の内容は、堀川用水が誕生した寛文3年(1663年)からの歴史や、どのように造られ改修されていったのかを説明しているとのこと。

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下図右から、水害復旧碑。
1953年の筑後川大水害(昭和28年西日本水害)から復興したときの記念碑です。

水害復旧碑の隣は、昭和25年建立の古賀百工翁頌徳碑。
「堀川の恩人」として現在も語り継がれている古賀百工さんについて、“頌徳” =「徳を褒め称える」内容が石碑の裏面に彫られています。

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下図左側は水害復旧碑の裏面、右側は古賀百工翁頌徳碑の裏面。
昭和28年の水害復旧碑よりも、昭和25年建立の古賀百工翁頌徳碑のほうが綺麗なのは、古賀百工の生誕300年だった2018年を記念して、2019年に石碑をリニューアルしたからだそう。

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石碑に並んで山田堰についての説明展示。
説明の中に、2019年12月に亡くなられた中村哲医師のお写真がありました。
アフガニスタンで人道支援をされていた日本人医師が銃撃されたというニュースは知っていたものの、山田堰と深い繋がりがある方だったとは、ここに来るまでまったく知りませんでした。

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中村先生は1984年からパキスタン・アフガニスタンで医療活動をされていましたが、アフガニスタンで大かんばつが発生(2000年)。
水不足の深刻化と農耕地の砂漠化で、飢えと渇きにより多くの人が命を落としていく状況を目の当たりにし、
「100の診療所より1本の用水路を!」
と立ち上がり、白衣を脱いで用水路整備を主導。
アフガニスタン東部のクナール川から取水するため、この山田堰をモデルにした石堰を築造し、マルワリード用水路を開削して、広大な荒廃地を農地として蘇らせました(2010年)。

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江戸時代、暴れ川の筑後川を山田堰をもって治め、堀川用水から水を導き、飢餓に苦しむ人々を救った、古賀百工さん。
古賀百工の造ったままの姿で230年もの月日に耐え、現在も治水と利水の役目を果たし続ける山田堰に倣い、暴れ川のクナール川をカマ堰をもって治め、マルワリード用水路から水を導き、飢餓に苦しむアフガニスタンの人々を救った、中村哲医師。
時空を超えて同じ偉業を成し遂げた二人を、筑後川が背後から称えてるような景色を思い、胸熱。

世界に誇れるストーリーを持つ山田堰へ、本当に偶然に立ち寄ることができた幸運とご縁に感謝!

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ビューホテル平成から筑後川を遠くまで一望。
先人が苦労して造ってくれた治水と利水の恩恵に感謝しつつ、今後も必ず起こる筑後川の水害に対し、今、備えていくことができればと思います。

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おまけ:混声合唱組曲『筑後川』

筑後川をテーマとしたこんな壮大な5章編成の合唱曲があるなんて、まったく知りませんでした…


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