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世界とのかかわりについての覚書

「フマニタス(真に人間的なもの)は孤立のなかではけっして得られませんし,作品を公にすることによって得られるものでもありません.それは,自分の生ならびに人格を「公共的領域への冒険」に委ねることによってのみ達成されうるものなのです.」 − Hannah Arendt (1906-1975)

阿部斉訳『暗い時代の人々』(河出書房新社,1986)

はじめに

はじめまして.
時久 史嵩といいます.学部時代は哲学・社会思想を中心に勉強してきました.
大学卒業が間近に迫るなか,まとまった創作活動を今後も継続させるべく,noteを開設してみました.
創作は私たちがこれまで感じてきたもの,考えてきたものを土台にして行われる極めて生命的で個人的な行為です.しかしこの施策を通じて,私はいかに世界の中で生を紡ぐことができるのかという課題を検討するために,生をかけた文章群を公開することにしました.なお重要なことに,私の文章は極めて陳腐であり,社会的な価値はありません.ですので,筆者がいかに生の手触りを文章として紡げるかという日記的なものであるとご承知ください.
このnoteでは創作活動をいかに発展させることができるか,とりわけ自分の思考や感情を日本語(時には英語)の文章とともに,いかにパフォーマティブに実践できるかを検討していきたいと思います.
(この投稿のサムネは卒論執筆時のデスクの様子を撮したものです.)

生の冒険に向けて

文章とはこの世界を生き抜いた結果として得られる自分だけの「意味と価値」に基づいて紡がれるものではないでしょうか.どのような考えや思いをどのような言葉で表現するのかということは,しばしば学校教育における学問的規則に準じて行われます.しかし,私たちはその規則それ自体を疑問視し,そこから(敢えて)逸脱するような文章を書くことができるのです.私たちが小説や詩の文体に感動するのは,内容のみならず,文体それ自体が教科書的な方法を逸脱し,作者がなぜ「そのように表現せざるを得なかったのか」という理由に触れることができるからです.それはすなわち,これまで生きてきた中で培った自分だけの「生きられた意味と価値」に他なりません.したがって,文章というのは教科書的な文法規則に準じながらも,それに完全に固定されることなく,私たちが自分の感覚のもとに紡いでいけるものだと思います.
私が執筆した卒業論文はまさに,自分がこれまで生きてきた感覚を大切にしながら紡いできた文章です.これは私の文章が他の人の文章よりも優れているということではなく,あらゆる人の文章がその人の価値を体現した素晴らしいものであるということです.
このように,文章はある人の価値に依拠して紡がれる<閉じられた>ものであるように思われます.しかし,「フマニタス」がいかに立ち現れてくるのかを考えるとき,文章は<開かれる>ものでもあるべきです.なぜならArendtが言うように,生は「公共的領域への冒険」に向かわねばならないからです.私は彼女のこの言葉を,生を紡いだ結果としての文章(あるいは作品,創作)は公共という渦の中に放り込まれるからこそ,文章を紡いだ主体は<真に人間的>たりうるのだと解釈しています.もちろん<真に人間的>という言葉は西洋中心主義,人間中心主義を誘うものであり,容易に肯定することは控えるべきでしょう.しかし(少なくとも)私が人間である以上,生命たる人間がなにを意味するのかを考えたいと思うのです.
私は文章を<開かれた>ものとする施策として(ひとまず)noteを選びましたが,初投稿として卒業論文を公開しておきたいと思います.卒業論文は今後のアカデミックパスにおける業績にはなりえないこと,さらに私の卒論は学術的にまだまだ取るに足らないものであることを勘案し,公開してもよかろうというわけです.したがって,卒論の公開は私の自己満足であると同時に,世界といかに向き合い生きていくかという方法を模索する第一歩でもある極めて個人的なことであるように思っています.

文章の公開に触発されたわけ

ところでなぜ文章を今になって公開しようと思ったかについて,ややメモ書き程度に残しておきたいと思います.
まず,卒論の内容を監修してくださった先生から頂いた言葉によるものです.私はこの卒論を執筆する中で,いかに日本語を利用して記述するかということに悩まされました.私の日本語は主語を明記したり,英語の5文型に厳格に則ったりするシステマティックなものであるため,詩などに見られる「流れるような」文章を紡ぐことができません.しかし,監修の先生の文章はこの流れの中に身を置いて書(描)かれており,偶然的で流動的な世界における流れるような生を最大限に肯定するその文章に私は心から感動しました.この思いを先生にぶつけると,それは日々の創作の中で徐々に研磨されていくものであるとのお返事をいただきました.文章の公開の背景には,その日々の創作のプラットフォームを持ちたいという動機があるのでした.
そして,次なる理由は学長から頂いた言葉によるものです.大学の友人に誘われて,私は我らが学長と学生で運営されている非公認ゼミに参加しています.その中で学長が「本を読む上で重要なのは,なによりもまずその著者に惚れ込むことなんだよ」と仰っていました.つまり著者に惚れ込むことでその著者の真の意図を掴むことができ,それゆえ私たちは著者を深いところから肯定したり批判することができるというのです.これまで私は,本とはある知識を得るための単なる媒体であり,読書とはその知識を得るためだけの行為であると考えていました.しかし,本を読んでも面白くないと日々感じていたのは,その文章の背後に著者の手触りを感じ取ることができなかったからでした.というより,感じ取ることを周到に避ける読み方をしていたからでした.卒論執筆後はどうしても頭が論文執筆モードから脱却することができず,本を分析的に読んでしまうため,本を読むのが苦痛でした.しかし先日,基礎情報学の立ち上げ人,西垣通先生の新刊『超デジタル世界−–DX,メタバースのゆくえ』を一気に読み上げてしまった時,この苦痛からようやく逃れることができました.卒論のテーマと非常に親和性のある内容にも関わらず,すらすら楽しく読むことができたのは,著者の感じている手触りが文章を通じて実感できたからでした.西垣先生にお会いしたことがあるからこそ,こうした経験ができたのかもしれませんが,なにより「著者に惚れ込む」という読書の態度が根底にあったからだとようやく気がつきました.私はいまになってようやく,本を・読書を楽しめるようになったように思います.こうした読書を通じて,なにか書きたいという衝動に駆られ,私は今日こうして文章を紡ぎ公開しています.

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