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邪馬台国解決の決定的証拠:封泥は見つかるか?

僕は2024/3/8のnote記事で、邪馬台国問題は現段階では結論は出ないということを書きました。結論は出ないと考える理由は以下のとおりです。

  • 魏志倭人伝は倭国を「遠い南の大国」と誤解した。その背景には西晋王朝への忖度があった。里数・日数・風習・戸数・統治機構・卑弥呼の墓など、内容は誇大で間違いだらけになった

  • 魏志倭人伝からは、どのような遺物・遺構があることがふさわしいかも読み取れない。これまでの考古学的成果では、卑弥呼の都の所在地を示す決定的な証拠は出ていない

そのため、いくら魏志倭人伝を読んでも(文献学でも)、これまでの考古学的成果を解釈しても、現段階では邪馬台国問題の結論が出ることはないと考えています。

邪馬台国問題が解決するには、考古学的に、決定的証拠となるものが出てくるのを待つしかありません。その決定的証拠とは何でしょうか。

金印が出土しても

卑弥呼が魏の皇帝から贈られた「親魏倭王」の金印(または使節に与えられた銀印)が発見されれば、卑弥呼の都だと特定できると言われることがあります。僕は金印が出土しても、卑弥呼の都は特定できない思います。

金印は運んで移動できます。福岡県志賀島[しかのしま]で、後漢から奴国[なこく]に57年に贈られたとされる「漢委奴国王[かんのわのなのこくおう]」の金印が出土しました。志賀島が奴国[なこく]の王都だと言う人はいないと思います。

「漢委奴国王」金印の模型(博多大博通り・歴史の散歩道)

もし「親魏倭王」の金印が見つかっても、移動をめぐって論争になるでしょう。近畿で出土した場合は、卑弥呼の政権が九州から近畿に移動(東遷)した可能性も検討しなければなりません。

逆に、金印が近畿から九州に移動することは想定できませんから、金印が九州で見つかれば、近畿説は否定され、九州説の有力な根拠にはなります。九州で、王墓から出土した場合は、解決に大きく前進することにはなりますが、確定とまではいきません。

金印が本物かどうかも問題になります。「漢委奴国王」の金印は江戸時代に水田で偶然発見されたとされ、本物か偽物か真贋論争がいまだに決着していません。

封泥は出るか?

決定的証拠になるのは金印ではなく、封泥[ふうでい]です。

トップ写真は「皇帝信璽」封泥です。秦~前漢の時代(前3世紀~前2世紀)に使われたものです(東京国立博物館展示)。

封泥とは、封印に使われた泥(粘土)のことです(リンク先はトーハクサイト)。重要な文書や品物を発送したり保管する時に、押印した封泥が使われました。開封すると封泥は壊れます。封泥は、文書が改竄されたり、品物がすり替わっていないことを証明する役割を果たしました。

押印された封泥の使い方は、トーハクのオンライン月例講演会(2021年2月)のYouTubeがわかりやすいです。紐と封泥を使ってどのように封印するのかを紹介しています。

現代の印鑑は文字に色(朱肉)をつけるために陽刻(凸形)になっています。封泥のための印鑑は、「皇帝信璽」をはじめ、下の写真の様々な封泥を見てわかるとおり、陰刻(凹形)でした。粘土に押印すると、文字が浮き出ます。「漢委奴国王」の金印も陰刻です。

  • 上段:皇帝信爾[こうていしんじ]、江夏太守章[こうか・たいしゅしょう]、琢郡[たくぐん]太守章、会稽太守章

  • 下段:河東[かとう]太守章、戈船侯印[かせんこういん]、厳道橘丞[げんどうきつじょう]、齊鐵官印[せいてつかんいん]

紙は後漢の時代の105年に発明され、普及したとされていますが(日本印刷産業連合会サイト「プリントピア」印刷の歴史・前史)、魏の後の西晋の時代にも文書の封印に封泥が使われていたことがわかっています(トーハクに問い合わせて教えていただきました)。

封泥が使われた元康三年(293年)の文書が敦煌から出土しています(「敦煌出土西晋元康三年“苻信”考釈(武漢大学歴史学院、2012年))。封泥には「塞曹印信」の押印がありました。魏志倭人伝に「塞曹掾史[さいそうえんし]張政」という魏の役人が出てきます。その「塞曹」です。辺境の郡に設置された地方行政機関の役職名です。「印信」とは印を押して証明する文書という意味です。

魏の皇帝から卑弥呼に贈られた金印や文書には、封泥が伴っていたはずです。文物が受け取り人の元にわたり開封されれば、封泥の役割は終わりますから、封泥の移動は想定できません。魏の皇帝の封泥が出土すれば、卑弥呼の都の可能性は高いです。金印の入った容器や文書は開封されたでしょうから、欠けた封泥ということになります。

日本ではまだ古代中国の封泥が発見された例はありません。まして欠けた封泥を発見するのはとても難しいと思いますが、可能性はゼロではありません。

残念ながら、魏の皇帝の印鑑や封泥は出土しておらず、どんな印影だったのかは不明です。仮に日本で魏の皇帝の封泥らしきものが出土しても、本物かどうかがわからず、これも真贋論争になります。

もう1つ、封泥の可能性として、卑弥呼は「親魏倭王」の金印を封泥に押印し、文物を保管したり発送したかもしれません。

もし「親魏倭王」の欠けていない封泥が見つかった場合は、その場所は卑弥呼の都の可能性があります。もちろん、真贋論争は発生します。

未発掘の王墓に期待

日本では近畿の陵墓など、未発掘の古墳が多いです。富雄丸山古墳や桜井茶臼山古墳のような陵墓以外の古墳から、盾形銅鏡や蛇行剣、103面もの銅鏡の集積など、考古学者の想定を超える遺物が出土しています。陵墓を発掘したら、どれだけの新発見があるのか、想像もできません。

福岡県春日市にあった奴国王墓は、弥生中期(紀元前1世紀頃=「漢委奴国王」金印を贈られた王よりも数代前)の王墓だとされていますが、その周辺に後期または終末期(卑弥呼の時代)の 王墓が見つかる可能性も指摘されています。奴国王墓のあった須玖岡本遺跡D地点には、後漢の時代の様式の夔鳳鏡[きほうきょう]が出土しており、弥生後期にも中国との交流があったことが推定できるからです。

封泥が発見される可能性は限りなく小さいですが、いつかどこかで出てくることを期待せずにはいられません。

#金印 #封泥 #邪馬台国 #魏志倭人伝 #卑弥呼 #奴国王墓

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