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須玖岡本遺跡D地点と奴国王墓

福岡県春日市にある須玖[すぐ]岡本遺跡を調べると、「D地点」という場所の名前が出てきます。他の遺跡では聞き慣れない名前です。須玖岡本遺跡D地点とは何なのかを紹介します。

須玖岡本遺跡は奴国[なこく]の王都だったとされています。奴国とは、57年に後漢から「漢委奴国王[かんのわのなのこくおう]」の金印を贈られた奴国です。魏志倭人伝にも登場します。現在の福岡県春日市岡本にあります。

戦前の論文から振り返ると

D地点とは奴国王墓の発掘・調査の過程でつけられた名前です。奴国の王墓にはちょっと複雑な経緯があります。王墓が発見されたのは明治32年(1899年)のこと。長くなりますが、戦前の論文2本から引用します。

  • 「明治三十二年に於ける須玖岡本発掘物の出土状態(其一)」(中山平次郎、考古学雑誌第12巻10号、1922年)

  • 「筑前須玖先史時代遺跡の研究」(島田貞彦、京都帝国大学文学部考古学研究報告、1930年)

特に1922年(大正11年)の中山さんの報告が詳しいです。20年以上前の発見当時のことを調べるのですから、苦労は並大抵ではなかったと思います。その後、1929年(昭和4年)に京大が本格的に発掘・調査しています。古文を読むような気持で読んでみてください(昔の漢字や仮名遣いは修正しました)。太字だけ読んでくださってもいいと思います。

どちらの論文にも「大石」(大きな石)が出てきます。奴国王墓の上に置かれていた2つの巨石(横石・竪石)を指します。横石は長さ3.3m、幅1.8m、重さ約4tの花崗岩です。現在は「王墓の上石」として、福岡県奴国の丘歴史公園に移され、展示されています(トップ写真)。

【中山さんの論文より】

「概括」(まとめ)
▶①該遺跡付近の地は元来大甕の埋没多かりし畑地にして、近年剣及び鏡を出したる大甕埋没地点とすこぶる近接し、金石併用時代※においてかの地付近一帯は墓地をなせしがごとし。
※金石併用時代:石器から金属器(青銅器・鉄器)に移り変わる時代。後に「弥生時代」と呼ばれることになった。
▶②大石の旧状は奇異にして、今の煉瓦郭[れんがかく]の代わりに低き土壇をもってしたりというがごとき隆起ありて、大石は平たくその上に横たわれりという。また竪石は現今ほどに直立せず、少しく斜めに大石に寄りかかれりと。
▶③以上の大石は村民の間に神聖視され、これを穢[けが]せば祟りありと伝えきたりしという。
▶④以上の伝説に基づき村民はその下に何物かが埋没せるを想像せしも、祟りある石下に埋もれたるものとしてこれが何物なるやを知るべき道理なしという。
▶⑤明治三十二年に遂行せられたる発掘は元来発掘のための発掘にあらずして、家屋建築の妨害物として以上の大石を移すに際し、石下の想像埋蔵物を発掘せんとするの議起こり、多数のものは祟りを怖れてこれを止めたりしも、ついに決行するに至りしなり。
▶⑥大石下に相当する地面を発掘するに際し、甕外より最初に剣その他を出したりとの所述は信ずるを得べく、その位置のごときもほぼ明瞭なり。
▶⑦大石下中央辺の地下(当時発掘したる深さ三尺余)に多量の朱を入れたる大甕の埋没せるものありて、遺物の多数はこの甕内にありたりという。しかしてこの甕は当時既に破壊しその内部は黒味ある土をもって充たされたと。
▶⑧以上の大甕は今なお大石下に遺存せる破片と対照すれば、九州北部地方にはなはだ多き弥生式土器質の甕棺と認定すべく、このものが二個口を合わせたりしやは発掘者の記憶に存せざるも、発掘者がその方向の横向きなりしを明答せるによれば、ほぼかく推定して大過なきがごとし。
▶⑨大甕の内容として発掘者の記憶に存せるは、朱の他は多数の鏡鑑(銅鏡)あり。また長短まちまちなる鉾剣の類あり。ことにある鉾は甕内にありたるがごとし。なおはなはだ脆弱なる管玉様物ありて、このものは多数連続したるまま出たるがごとし。
▶⑩今なお大石下に多く遺存せる粘土塊の所在については何人もこれを明記せずといえども、発掘者の口述を参考して考察すれば、これをもって甕外にありたりと認定すべく、上述の大甕なるものは元来その周囲を粘土詰めにせられたりしがごとし。
▶⑪以上の発掘は大石下中央部付近の土色を異にしたる部分のみに行われたるものにして、その周囲を掘り荒らしおらずという。
▶⑫発掘後新たに煉瓦郭を設け、内に一切の遺物を置き、再び被[おお]うに大石をもってしたるの理由について、従来これを奇異に感じたりしが、今回ようやくこれを明らかにしたり。以上の処置は某僧の発議に出てたるものにして、伝説のごとくあるいは祟りのなきにあらざるを顧慮し、神物を原所に返納せんとするの旨意[しい=意図]に他ならざりしなり。かの煉瓦郭のごときも元来大石下にあったる土壇を模したるものなりという。
▶⑬かの煉瓦郭内の遺物は今日既に拾い尽くされたるごとく推察せられしも、実は今なお捜索絶望にあらず。朱の付着を示せる大甕破片の遺存せるもの少なからずして、その色澤[しきたく=色つや]及び硬度よりいえば、元来二個の甕に属せるがごときも、疑問の余地なしと称するあたわず。
▶⑭右の他大甕内の遺物としてはなお多少の前漢式鏡碎片[そつへん=破片]を出し、発掘者の記憶に存せし脆弱性管玉様物のごときも、これに符合する宝物を発見したり。

中山平次郎「明治三十二年に於ける須玖岡本発掘物の出土状態(其一)」
(考古学雑誌第12巻10号、1922年)

本文より(順不同)
発掘が明治三十二年の何月頃かを尋ねると、源次郎翁は令閨とその当時に起こった他の出来事を思い出されて、それから起算して八月頃に当たると言われた。
▶村人からかの明治三十二年発掘物の出土状態の詳細を聞き出さんと企てた事も再三であったが、以外にもこれが頗[すこぶ]る困難で、最近までほとんど絶望の姿であったのである。かの時の遺物が大石下に埋まっていた甕の内から出た事、ならびにかの大石でこの近傍の産でない事くらいは容易に知りえたが、それ以上の詳細の事になると、これを知っている人に出会わぬのである。
▶発掘現場を視察し、次いで村落に至り、かの有名な大石のそばに立って、この地点の発掘物について両博士(八木柴三郎氏・古谷清氏)と交話していた際、それを聞いていた一人の農夫が余に耳よりの話をしてくれた。この人は同地居住の吉村良作氏で、その言にしたがうと、源次郎翁の親類であり、明治三十二年同翁の家屋建築の際には助力のため来ていて、この大石を動かした時にも参与したというのである。
▶吉村良作氏はまた翁の親類、当時十七歳の若者、その談話はまた発掘者として敬聴に値するのである。
▶その両石の原位を知らんとして、過日吉村良作氏を煩わしてこれを指定していただくと、現今の位置より西南二十歩程のところにあった事が知れた。
▶大石下には一般の地面より七八寸余り一尺にも近かるべき高さを有した土の隆起があって、これに支えられて横石は平たくその上に乗っていたという。
▶昔より神聖視されきたった石下を掘って、夥多[かた]の遺物の埋没せるを発見したのであるから、あるいは伝説のごとく祟りのなきにあらざるを顧慮し、横手原の某天台僧に図ったところ、とにかく発掘物は神物としてその全部を元の石下に返したがよろしからんとの事なりしにより、今大石のある位置に旧状の土塊を模した煉瓦郭を設け、発掘物はもちろんその当時掘り上げた土塊等一切のものはごとごとくこれを郭内に蔵め、旧観のごとく大石をその上に置き、かの天台僧を請じて読経災害のなからんを祈願したという。
▶以後しばらくはそのままであったが、ある時かの地の熊野神社宝物たる学会に著名の銅鉾の鎔笵[ようはん=鋳型]を見んため、一人の学者が訪問されて、この際付近の発掘物の事など尋ね出てられたるにより、上述の発掘の事を話したる者あり。その宝物を一見せんとありたるにより、煉瓦郭を破壊して郭内の遺物を取り出したる由である。遺物の分散せるはむろんその後の事であろうが、何人がいかにして何方[どちら]に持ち行きたるやは、源次郎翁はこれを知られぬようである。
▶この時源次郎翁の建てられた家は以後そのそばに引かれて、今は他の人の住宅となっていて、その跡は現今桑畑になっている。他日この地を踏査せらるる諸賢のうちにその地点に家なくをあやしまるる人が出ぬとも限らぬにより、序をもってこの事を付記しておく。

中山平次郎「明治三十二年に於ける須玖岡本発掘物の出土状態(其一)」
(考古学雑誌第12巻10号、1922年)

【京大の論文より】(順不同)

▶須玖岡本遺跡として最も重要視されるかの明治三十二年大石下遺物発見の地点は、既に中山博士細心の努力によって微少なる遺物に至るまで採集せられているのであるが、なお念のため該地域を検索せし結果、若干の鏡鑑破片と角製管玉一個を採集することができた。この地点をD地点と名付ける。
▶その(大石の)下に甕棺があり、遺物は恐らく棺の底部に近く存在しておったとし、また甕棺はやはり合口甕棺であり、石下浅く埋められてあったとすれば、甕棺は約三十度(もしくはその以内)の斜位をもって置かれたとすることができよう(第6図)(梅原(末治)君の測図に基づき甕棺埋没状態を想像したものである)。
▶この地点(大石の元の位置)から約七間北東の地下に煉瓦の小室を作り、発掘遺物を始め掘り上げたる土塊に至るまでこれを納め、大石を旧状のごとくその上に置いたのであるが、今その小屋は失われて、目標として当時その左右の限界に植えられた柿の木が空して茂っているのみで、大石も昭和三年(1928年)さらに遷されて、今は熊野神社に通ずる道路の左側に置かれている。
▶(古谷清氏は)明治四十四年(1911年)の夏実査せる報告を「鹿部と須玖」(考古学雑誌第二巻第三号)と題して「…現場に移す以前、その大石の下にこれらの古物の埋没せることを、土地の人びとは知りおりたるものにて、現時煉瓦郭内に移されたる遺物が、必ずしも一ヶ所より出でたるものとは思われざるなり…」云々と記されている。

「筑前須玖先史時代遺跡の研究」
(島田貞彦、京都帝国大学文学部考古学研究報告、1930年)

D地点について要約すると、以下のようになると思います。

  • 畑に2つの大石があった。横石は30㎝ほどの盛り土の上にあった。周辺は昔から青銅器などの出土で知られていたが、村人は祟りがあるとして大石の下は掘り返さず、神聖視していた。

  • 1899年(明治32年)8月頃に、地主の吉村源次郎さんが家を新築するため、吉村良作さんらに手伝ってもらって、大石を移動した。

  • 反対意見はあったが、意を決して大石の元の場所を掘り返してみると、甕棺・青銅器・管玉などが大量に出土した(奴国王墓)

  • 大石の元の場所から北東のところに、元の盛り土を模して煉瓦郭を設け、出土品はすべて埋め直し、その上に大石を置いて無事を祈願した。

  • その後、煉瓦郭を壊して、遺物を持ち出した人がいた。この時に限らず、遺物がどこにどのように分散したかは不明

  • 1922年(大正11年)以前に中山さんが調査し、追加で甕棺破片・鏡破片・管玉などを見つけた。

  • 1929年(昭和4年)に京大が調査し、明治三十二年大石下遺物発見の地点をD地点と名づけた

「D地点」と名づけたのは京大です。D地点があるのですから、A~C地点もあります。

京大報告の「明治三十二年大石下遺物発見の地点」はわかりにくいですが、報告の図版第三(p6)を見ると、水色の枠内の煉瓦郭が設置された場所が京大の発掘地(赤)であり、D地点であることがわかります。「大石旧所在地」の北東側に「D地点」があります。

春日市の「史跡須玖岡本遺跡保存活用計画」(2018年)でも「D地点は王墓出土遺物を移した煉瓦郭が設置された場所」としています(p47)。

D地点は煉瓦郭が設置された場所ということになります。

現地は、現在は空き地(更地)になっています。Google Mapでは「奴国王墓」と表示されます。

奴国の丘歴史資料館にお聞きしたところ、奴国王墓の位置(大石の元の位置)は、だいたい敷地の西側(写真の左側)だとわかっているけれども、煉瓦郭の位置(D地点)がどこだったのか、正確な位置はわかっていないとのことです。D地点はこの敷地内またはその周辺ということになりそうです。

ちなみに、Wikipedia「須玖岡本遺跡」では「2つの巨石が邪魔になるので動かして、下を掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土した。その場所から約14メートル北東に煉瓦囲いの地下室を作って、出土遺物と掘り上げた土塊までもこの中に収めた。この地下室の場所を「D地点」と呼んでいる」としています(2024年1月現在)。

14mというのは中山さんの論文にある「20歩」を歩幅70㎝として計算したものだと想像します。京大報告には「7間」(約12.6m)とあります。煉瓦郭は30㎝ほどの元の盛り土を模したものですから、地下室というほどのものではなかった気がします。実際はどうだったのでしょうか。

墳丘墓の推定

奴国王墓には(正確には確かめようもありませんが)、30面前後もの前漢鏡、10本前後の銅剣・銅矛・銅戈、管玉などが出土したとされています。まさに王墓にふさわしいです。

春日市計画に「王墓原位置の南側の道がクランク状になっていることに注目」とあります(p47)。これは、道がクランク状になっていることで、大石の元の場所が墳丘墓だったことが推定されているためです。墳丘墓が築造できるだけの権力があったことを意味します。

「須玖岡本遺跡案内MAP」では「王墓跡の南側の路がクランクになっているのは、この一角が昔から高くなっていたからだろう。王の墓が墳丘をもっていたのかもしれないね」と説明されています。

奴国王墓が墳丘墓であったことは、すぐ近くで別の墳丘墓が確認されたことも、もう1つの根拠になっています。こちらの墳丘墓からは鉄剣などが出土しました。奴国王墓に比べて副葬品が少なく、奴国王を支えた王族の墓と考えられています。王族墓が墳丘墓であることから、青銅器が大量に出土した、上位の奴国王墓も墳丘墓だったと推定されるわけです。

ちなみに、王族の墳丘墓は、「須玖岡本遺跡案内MAP」によると「甕棺を納めた穴の壁を見ると、違う色の土がシマ状になっているね。墳丘を積みあげた証拠だよ!」と説明されています。墳丘墓であったことが、いろいろな視点から確認されているんだと思いました。

王墓・王族墓の規模や範囲は、奴国の丘歴史資料館は不明としていますが、久住[くずみ]猛雄さん(福岡市埋蔵文化財センター)は以下としています(「奴国とその周辺」(久住猛雄、『邪馬台国をめぐる国々』(雄山閣、二〇一二年)所収))。

  • 王墓:周囲地形から約25×30m程度の墳丘区画が想定

  • 王族墓:墳丘盛土が確認され20×25mの規模

弥生後期とされる平原[ひらばる]1号墓(糸島市)は14×12mですから、それよりも一回り大きい墳丘墓になります。

奴国の丘歴史資料館では、甕棺に埋葬された奴国王が映像で浮かび上がってきます。

公園にはドームが2つあり、王や王族に次ぐ有力者の甕棺集団墓が発掘された状態のまま保存されています。すばらしいと思います。

※ちなみに、発掘のままの甕棺集団墓は、奴国の丘歴史公園から徒歩1時間の金隈[かねのくま]遺跡甕棺展示館(福岡市博多区)でも見ることができます。

ちょっと気になるのは、須玖岡本遺跡において、甕棺集団墓が丘の上にあって、奴国王墓・王族墓が丘の下にあることです。王墓は見晴らしのいい場所にあるものだと思っていました。須玖岡本遺跡で王墓が丘の下にあるのは、なにか理由があるのでしょうか。

※ちなみに、僕は前方後円墳は、周濠が水田稲作のための温水溜池として利用されたという仮説を立てています。前方後円墳は傾斜変換線(丘陵と平地の境)に築かれていることが多く、水田への給水に適しています。いつか弥生時代の墳丘墓の立地についても調べてみたいと思います。

新しい奴国王墓の存在

奴国王墓は、甕棺の埋葬方法などから弥生中期後半(前1世紀頃)の王墓とされています。後漢から金印を受け取った王から、数世代前の王の墓と考えられています。

金印を受け取った奴国王の墓はあるのでしょうか。寺沢薫さん(奈良県桜井市纏向学研究センター)も久住さんも存在する可能性が高いと述べます。

▶ナ国(奴国)ではいまのところ、(弥生)後期以降の「王のなかの王」の墓はおろか、王墓級の墓もみつかっていない。王墓級はいずれ発見される可能性は高いと思っている…

『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中央公論新社、2023年)

▶「漢委奴国王」金印の「奴国」の王墓はまだ不明である。後漢から「王」として認知されている以上、王墓は存在しよう
▶須玖岡本遺跡群周辺の弥生後期の墳墓をみると…立石遺跡…や宮の下遺跡…などがある。…また須玖唐梨遺跡には後期初頭から前半の甕棺や土壙墓からなる低墳丘墓がある。また那珂遺跡群…からは土壙墓・木棺墓が検出され、後期中頃の墳丘墓の可能性がある
▶これらの上位に立つべき、「奴国」の中枢にある須玖岡本遺跡群北部集落に対応すべき有力な墓地(墳丘・区画墓・厚葬墓)が須玖岡本遺跡(D地点王墓の周囲)に存在する蓋然性[がいぜんせい=可能性]は高く、後期の「奴国王墓」も存在が予想される

「古墳成立前後の「奴国」とその周辺の様相」(久住猛雄、宇美町歴史民俗資料館開館20周年記念
『国指定史跡光正寺古墳展~不弥国と倭人伝の国々』別刷、2000年)

▶57年は(弥生)後期前葉の新し い頃に該当するが、ちょうど須玖岡本遺跡群に青銅器生産が集中する時期であ り、「奴国」の力が強大化した時期…である
▶須玖岡本遺跡群とその周辺には、松添遺跡、宮の下遺跡、立石遺跡などの後漢前期頃の銅鏡を1~2面副葬する墳墓があり、その上に立つ「王墓」があってもおかしくない

「日本列島の弥生時代と日韓交渉~北部九州・福岡平野周辺を中心に」
(久住猛雄、釜山広域市福泉博物館『国際学術シンポジウム 原始・古代の韓日交流』、2016年)

▶(弥生後期の奴国王墓は)おそらく、「伊都国」王墓の井原鑓溝や平原よりは下位としても、桜馬場程度の副葬品内容はあり、小規模ながら墳丘や区画を有するものであろう
▶しかし、金印の王が「奴国王」ならば井原鑓溝クラスの王墓があっても驚くに値しない

「奴国とその周辺」(久住猛雄、『邪馬台国をめぐる国々』(雄山閣、二〇一二年)所収))

久住さんは2000年の論文では、弥生後期だけでなく、終末期にも奴国の王墓が存在する可能性があるとしています。

▶須玖岡本遺跡群周辺(春日市)でも、須玖岡本D地点出土品の中に後漢末期型式の夔鳳[きほう]鏡が混入していること、立石遺跡で斜縁の後漢鏡片が採集されていることから、終末期頃の有力な墳墓が存在する可能性がある

「古墳成立前後の「奴国」とその周辺の様相」(久住猛雄、宇美町歴史民俗資料館開館20周年記念『国指定史跡光正寺古墳展~不弥国と倭人伝の国々』別刷、2000年)

※久住さんの論文は無料登録してダウンロードできます。

D地点での、後漢末期型式の夔鳳鏡の混入は、京大報告が引用する古谷さんの「煉瓦郭内に移されたる遺物が、必ずしも一ヶ所より出でたるものとは思われざるなり」という報告(1911年)とも呼応します。後漢の滅亡は220年です。

寺沢さんも久住さんも、弥生後期・終末期の奴国王墓が見つかったとしても、平原1号墓よりは副葬品などにおいて下位ではないかと推測しています。それは、後漢書で107年に後漢に使節を送ったとされる倭国王帥升[すいしょう]が伊都国王だとも考えられていること(王墓は井原鑓溝遺跡甕棺とする)、魏志倭人伝でも伊都国は大率[だいそつ=出先機関?]がおかれたり、使節がとどまるところとされるなど重要な役割を果たしていることが根拠だと思います。弥生後期には、倭国の覇権が奴国から伊都国に移ったと考えるわけです。

僕は断定はできないと思います。奴国は弥生時代終末期~古墳時代初期までを通じて、青銅器製造や貿易など経済活動の中心でありつづけます。伊都国に覇権を委ねる理由がないと思うからです。久住さんは「(須玖岡本遺跡に)井原鑓溝クラスの王墓があっても驚くに値しない」と述べていますが、僕は平原1号墓クラスという可能性もあると思います。

須玖岡本遺跡の発掘・調査は、2018年時点でU地点まで広がり、現在も続いています。弥生後期の奴国王墓が見つかるといいですね。

(最終更新2024/1/25)

#須玖岡本遺跡 #須玖岡本遺跡D地点 #奴国 #邪馬台国 #弥生時代 #考古学 #金印 #漢委奴国王


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