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朝日新聞記者サロン「すごいぞ!奈良の古墳 富雄丸山古墳と桜井茶臼山古墳に迫る」を聴いて

2024年3月5日午後にオンラインで、朝日新聞記者サロン「すごいぞ!奈良の古墳 富雄丸山古墳と桜井茶臼山古墳に迫る」が開催されました。

福永信哉さん(大阪大学)、岡林孝作さん(橿原考古学研究所)、朝日新聞の今井邦彦さん(記者)、清水謙司さん(支局長)が出演して、約1時間半のサロンでした。 

全体的にとてもおもしろく、勉強になりました。ただ、もちろん疑問はたくさんありました。 

僕の印象に残った内容を報告します。「コメント」とあるのが僕の感想・意見です。順番は大きく並び替えています。正確に聞き取っているわけではなく、特に語尾のニュアンスは実際の発言と異なるだろうことをご理解ください。

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※トップイラストはイラストACより改変(蛇行剣のイメージ)


Q富雄丸山古墳から蛇行剣と盾形銅鏡が出土したが、何がすごいのか?

福永:考古学者はこれまでの発掘成果もあり、出土遺物はある程度想像できる。しかし、富雄丸山古墳の出土品は大きさもデザインも想定外だったことから、金属工芸の最高傑作と表現した。

過去に行燈山古墳から70㎝の銅板が出土したとされている。実物は失われたが、拓本では内行花文鏡のデザインだったことがわかる。津堂城山古墳でも、明治時代の盗掘で鋸歯文の青銅板破片が出土している。想像を超えたところで、こういった異形[いぎょう]の青銅器が未発掘の王墓には副葬されている可能性がある。 

岡林:中国では239年に蜀で1丈2尺(約2.9m。1尺=24㎝、1丈=10尺)の大剣がつくられたという記録がある。富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は2.37mで、それに次ぐ。1丈剣と呼んでいいと思う。盾形銅鏡も64㎝で、これもキングサイズであり、盾の形の銅鏡も初めて。

コメント:異形の青銅器というのはおもしろいです。これからどんどん出土するかもしれません。最高傑作とのことで、僕は事前質問で「例えば精緻なホケノ山古墳の画文帯神獣鏡の文様と比べてどうか?」と送りましたが、技術レベルについては言及がありませんでした。どの程度精緻なのでしょうか。

Q富雄丸山古墳の被葬者のイメージは?

福永:難しい質問。頂上部でなく造り出しから出土している。4世紀後半は前方後円墳が奈良盆地東南部から北部(佐紀古墳群)に移る。富雄丸山古墳は佐紀古墳群に近い。ヤマト王権を主導した勢力が北部で台頭し、富雄丸山古墳の頂上部の被葬者は北部勢力の中枢を担う人物、造り出しの被葬者は副官的な人物と考えておくしかない。4世紀後半は各地で50mを超える円墳が現われてくる。奈良盆地北部の新しい勢力と結んだ各地の新興勢力であり、その一番の親玉が富雄丸山古墳の被葬者ではないか。また考えておく。

コメント:埋葬施設の位置や大きさから、副官的な人物とするしかないというのはいいと思います。一方、富雄丸山古墳と佐紀古墳群や各地の円墳に何らかのつながりが確認できたわけではありません。回答が独り歩きする可能性もあり、想像で回答することは控えたほうがいいと思います。

Q桜井茶臼山古墳の鏡が103面にのぼることが明らかになった。ニュースを見てどう感じたか?

福永:最近の奈良のニュースは想像を絶するもので予断を許さない。ただ驚きである。数十mの古墳の地方の首長であれば、桜井茶臼山古墳の1枚をもっていれば権威を示せる。桜井茶臼山古墳は権威の次元が違う、異次元の権力者である。従来は、初期のヤマト政権は豪族連合のイメージだったが、ヤマト政権は当初から図抜けた存在だったといっていいのではないか。ヤマト政権成立時点の政治権力のあり方を考える大きな成果であり、どう消化するか、日夜悩んでいる。

岡林:石室の天井石は最大1.5t、12枚も使っている。貴重な水銀朱を少なくとも200㎏使っている。銅鏡以外にも墳丘、石室、木棺、副葬品、あらゆる点で突出し優位性がある。初期のヤマト政権の実像を明かすのに欠かせない古墳である。

キーワードは国産化である。桜井茶臼山古墳には、輸入品(中国鏡)の集積、器物(和製鏡)の国産化、貴重な水銀朱の資源開発など、各種が凝縮されている。初期の王は、産業を支配する王だったのではないか。富雄丸山古墳もタイムリーで(蛇行剣や盾形銅鏡は)国産力の向上を実証している。

コメント:福永さんの見方には、賛成も反対もできません。おそらく同年代と思われる古墳には、サロンでも紹介された黒塚古墳、椿井大塚山古墳もあります。いずれも三角縁神獣鏡を大量に副葬していました。4世紀末になると、畿内には渋谷向山古墳、佐紀陵山古墳、津堂城山古墳などが並立します。どの範囲までがヤマト政権なのか、果たしてそのうちの1つが図抜けていたのか、あるいは群雄割拠していたのかは、今後も研究されなければならないと思います。

Q邪馬台国、卑弥呼、奈良の古墳の関係は?

岡林:ポイントは年代が同じだということ。三国志(魏志倭人伝)の具体的な交渉記事は239~266年を扱っている。ホケノ山古墳、黒塚古墳などは同じ時代であり、奈良盆地東南部の古墳には圧倒的な優位性があることを考えると、(邪馬台国は近畿であり)他に答えはないと思う。2000年にホケノ山古墳を発掘しながら、冗談で、自分は卑弥呼の時代に一番近い所にいると、いつも心で思っていた。

コメント:ポイントは年代だというのはそのとおりだと思います。僕は事前質問で「三角縁神獣鏡の編年以外に、桜井茶臼山古墳の実年代の根拠があれば教えてほしい」と送りましたが、残念ながら、回答はありませんでした。

箸墓古墳の年代は、寺沢薫さん(中国鏡)、福永さん・岸本直文さん(三角縁神獣鏡)、歴博(炭素14年代測定)などの根拠が出されていますが、桜井茶臼山古墳、黒塚古墳には(三角縁神獣鏡の編年以外に)どのような根拠があるのでしょうか。科学的年代測定は行っているのでしょうか。

ある埋文センターの方は、遺跡の発表をすると、年代についてメディアは発表どおりに書いてくれると言っていました。僕も古代史に関する報道は、どのメディアも、発表者(考古学者、研究機関など)の見解をそのまま伝えることに一生懸命で、前提となるはずの自らの見解をもっていることがほとんどないと感じます。朝日新聞が奈良の古墳の実年代の根拠を理解しているとは思えません。

Qホケノ山古墳から三角縁神獣鏡が出土しないのはなぜか?

ホケノ山古墳:2020年10月撮影

福永:ホケノ山古墳は三角縁神獣鏡が出現する直前の墳墓だから。景初三年(239年)の年号が三角縁神獣鏡にはある。ホケノ山古墳の築造は240年より前になる。弥生時代の終わりに、鉄の入手をめぐる主導権争い、倭国乱が西日本であり、卑弥呼が共立された。共立された段階の卑弥呼の勢力拡大の道具が(ホケノ山古墳から出土した)画文帯神獣鏡だった。この時代は邪馬台国政権。239年に魏に使いを送り、卑弥呼は共立王から親魏倭王になった。三角縁神獣鏡を受け取り、豪族に分け与た。そこからがヤマト政権と考えている。

画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も、卑弥呼は見たことがあるはず。その鏡が桜井茶臼山古墳の半分以上を占める。邪馬台国以来の鏡の集積がある。他の地域にはこれだけの集積はない。ヤマト政権と邪馬台国がつながっているという以外の理解は難しい。神獣鏡は後漢後期の神仙思想を表しており、卑弥呼の鬼道とも関係があるという説がある。卑弥呼のにおいがする。

九州説は、前方後円墳つくる勢力が九州から発展したと考えていると思うが、発展の期間をはさみこむ年代的な余地がなくなってきている。九州説は、畿内で古墳が生まれ、拡大してきている時期に、九州では(邪馬台国という)別の動きがあったと考えていることになる。

岡林:ホケノ山古墳は前方部が未発達で、前方後円墳の形が定まっていく前史を物語る。

福永:ホケノ山古墳は卑弥呼の存命中であり、王墓ではない。それを古墳の画期としていいのか。

岡林:王墓かどうかは別問題。前方後円墳の前史として捉えるということ。

コメント:朝日新聞の意図はわかりませんが、この質問はいい質問だったと思います。

福永さんは、九州で(卑弥呼の王権による)別の動きがあったとは考えられない(卑弥呼の都は九州ではない)と言いたいのだと思います。まさに近畿での前方後円墳発生の実年代の問題です。

僕はたまたま卑弥呼の時代に、近畿では前方後円墳の原形が生まれてきていたのだと思います。別の動きがあった可能性は十分あります。卑弥呼の鬼道がどういうものだったかはわかっておらず、神獣鏡と関係があったかもわかりません。

ホケノ山古墳が240年より前ということはありません。ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡は2面あり、そのうちの破鏡は中国で230~250年に製作とされています(上野祥史「ホケノ山古墳と画文帯神獣鏡」(2008年))。鏡は楽浪郡に移動し、政治的交渉を経て倭国に持ち込まれ、倭国内で使用されて、古墳に副葬されました。230~250年に中国で製作された鏡が240年よりも前に副葬されるとは考えられません。

僕は、歴博とは異なる炭素14年代測定の年代モデルから、ホケノ山古墳は270年前後と考えています。それまで三角縁神獣鏡はなかったのだと思います。福永さんの年代推定とは、ずれています。それらのことは、2023/5/26のnote記事に書きました。

Q今後の奈良の古墳の調査をどう進めるのか?

岡林:保存部門が現場から関わること必要だと感じた。橿考研では保存科学部門を2名増員し、4名とした。過去の発掘資料を管理しているが、桜井茶臼山古墳のように、古い時期の調査は、現在的な視点・技術によって再調査したい。新しい古墳の調査ももちろんだが、既存調査の掘り起こしも重要だと思う。

Q奈良の古墳調査への期待を。

福永:近畿には調査できない古墳が多く、謎だらけである。ヤマト政権は古墳の墳丘(墳形)、埋葬施設、副葬品と、スタイルを変えながら、各地の有力者に分け与え、政治的な地域統治を図るという古墳戦略もっていたと考えられる。

奈良の前方後円墳は発掘できないかもしれないが、(富雄丸山古墳、桜井茶臼山古墳のような)有力者の古墳なら機会がある。古墳戦略の新しい要素がかいま見られる可能性がある。ヤマト政権の周辺から新しい情報を見つけ出すことを、奈良の古墳には期待する。

橿考研はすばらしい機関であり、今回の調査も奈良市埋文と橿考研がそれぞれの役割を発揮しているよい事例だと思う。今後も国家形成にかかわる情報、ヤマト政権の内部構造の変化を、禁欲的にならず、力強く発信してほしい。

コメント:既存調査の再調査、陵墓以外の有力者の古墳の発掘はぜひ進めてほしいです。古墳は発掘できなくても、周濠は調査できることもあると思います。周濠の調査も重要です。

全体コメント:朝日新聞は記事で、三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡とも呼ばれる」と枕詞をつけています。僕は事前要望で「確定した事実ではないから、卑弥呼の鏡というのはやめてほしい」と要望しましたが、サロンの冒頭に清水さんがこのフレーズを使っていて腹が立ちました。途中で今井さんが国産鏡という説もあると補足していました。

桜井茶臼山古墳の画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡は、どのような配置で出土したのでしょうか。僕は事前質問を送りましたが、回答はありませんでした。黒塚古墳では、1面の画文帯神獣鏡が頭部に置かれ、33面の三角縁神獣鏡は木棺外に置かれました。櫻井茶臼山古墳の三角縁神獣鏡は、黒塚古墳のように格下の扱いだったのかどうか気になります。

僕は三角縁神獣鏡は国産鏡であり、纏向遺跡が卑弥呼の都ということはないと考えています。纏向遺跡には大陸との交流の痕跡がほとんどないからです。近畿説では、三角縁神獣鏡が交流の痕跡だというのでしょう。三角縁神獣鏡の年代を解明するためにも、奈良の古墳の実年代が(三角縁神獣鏡の編年以外の手法で)特定されてほしいです。そのためには科学的年代測定が欠かせないと思います。

(最終更新2024/3/23)

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