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寺沢薫氏『卑弥呼とヤマト王権』への疑問:纏向には楽浪系土器が皆無

寺沢薫さん(纏向学研究センター)の最新刊『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)にはたくさんの疑問があるのですが、4点に絞って指摘したいと思います。 

寺沢さんの説は、一般的な邪馬台国近畿説とは異質です。僕のnote記事で度々掲載している一覧表を修正して、改めて掲載します(図表1)。

図表1

以下では、長くなりますが、寺沢さんの記述を引用しながら、疑問点を検討したいと思います。出典を明記していないものはすべて本書からの引用です。


1.纏向には大陸との交流の痕跡が希薄

搬入土器と前方後円墳から誇大妄想

寺沢さんは、纏向遺跡は3世紀初めまでの倭国乱を経て、イト・キビ・イヅモなどの首長層による政治的合意で成立した王都だとしています。

以前は政治的「談合」という言葉を使っていました。言葉のイメージが悪いからか、本書をはじめ最近では「合議」「会同」「会盟」といった言葉を使っています。僕は「合意」でいいのではないかと思います。

纏向遺跡が各地の首長による政治的合意で成立したという根拠は、纏向遺跡では各地からの搬入土器の比率が高いこと、前方後円墳には各地の祭祀の要素が集約されていることが、主な根拠になっていると思います。

○纏向遺跡の第二の特徴は、この時期の遺跡としては、他の地域から搬入された土器が異常に多いという点にある
○報告書『纏向』によれば、搬入土器は平均一五パーセント、最も多い纏向3式(おおむね庄内3式~布留0式に相当)では一七から一八パーセントを占めるという
○その搬入元は、瀬戸内海沿岸部、山陰、近畿各地、北陸、伊勢湾沿岸部、わずかだが北九州や南海道、東海道、南関東にもおよぶ
○三世紀では、搬入土器の比率の高さと搬入元の範囲の広さにおいて、他の追随を許さない
○纏向遺跡は、日本列島の物流と交易の中心とも考えられるようになった

後述しますが、九州からの搬入土器は鹿児島の1点があるだけだと認識しています。

倭国再編をリードした勢力は…イト国連合(イト倭国)、キビ国連合(瀬戸内中・東部)、そしてイヅモ連合の三者であったと思われる
○畿内や近隣のクニ・国も新生倭国のメンバーに加わったであろう

新生倭国に集った首長の間では、以下のような合意が交わされたとします。

○私(寺沢さん)は、おもだった部族的国家の王たちが新生倭国のあり方をめぐって、列島史上初めての広域にわたる政治折衝(会同)を繰り広げたものと考えてきた
○一つの部族的国家に権力が集中するのを防ぎ、外的国家の形成と内的国家の整備をすみやかに遂行していくために、そこでは次のような事項が協議されたのではなかったか
○第一に、現状のイト倭国体制の存続はもとより、特定の一部族的国家が新たな盟主国となる体制への移行も認めない。つまり、複数の主要な部族的国家群による合議制(寡頭体制)を確立する
○第二に男王の即位を禁止し、祭祀的女性大王を奉戴する。そして女王が夫婿[ふぜい=夫]をもつことも認めない
○第三に、王国体制の樹立をめざし、外的国家としての列島規模での領域拡大に見合う大王都を、ヤマト国(邪馬台国)内に建設する
○第四に、そうした王国体制を維持し発展させるために、強力な軍事力をもつとともに、祭祀的・イデオロギ一体化を支える紐帯としての共同幻想を創出する
○大王都建設に関連して第五に、旧盟主国であった伊都国には「大率」を置く

纏向に集まった各地の人々のなかには、首長層を含む集団が存在し、彼らが何世代にもわたって常駐して、その規模を拡大していった可能性がある
○ちょうど…現在の霞ヶ関の都道府県東京事務所のように、三世紀の纏向には、すでにそうした中央・地方の政治・行政を担当する出先機関が組織されはじめていたのではないか

○二世紀の終わりにキビ、イヅモ、北部九州の「王のなかの王」墓や王墓でおこなわれた首長霊継承の秘儀と、キビその周辺地域の墳丘墓に特徴的な前方後円(円+方)の墳形が、三世紀の新生倭国=ヤマト王権の大王都・纏向に集約されていることは重要である

前方後円墳の属性がどこから持ち込まれたかについては、例えば以下のような系譜を挙げています。

  • 墳形(円丘+方丘):キビ(瀬戸内)

  • 墳丘の巨大化:イヅモ・タニワ(近畿北部)、キビ

  • 葺石・貼石・積石:イズモ・タニワ、キビ

  • 鏡・玉・武器:北部九州

  • 鉄器多量副葬:北部九州

  • 特殊器台・壺:キビ

  • 周濠:近畿

前方後円墳の系譜や搬入土器の多さは事実です(九州北部を除く)。しかし、新生倭国で交わされた合意とか、纏向に各地域の代表が常駐したとか、これらは寺沢さんの想像です。もはや、誇大妄想纏向論といってもいいと思います。僕は後述するとおり、纏向が卑弥呼の都になったとは考えていません。

政治的合意の黒幕が公孫氏ならば

さらに、寺沢さんは、政治的合意の背後には、遼東半島を支配していた公孫氏[こうそんし]による外圧があった可能性も指摘しています。

○大国である魏と呉との間で活路を見いださねばならない公孫氏としては、魏と呉を牽制するために、いかに韓や倭を臣属させ、自陣営に引き入れるかに躍起となっていたに違いない
○帯方郡の設置後、公孫氏はただちに韓と倭に近づいて、外交関係を結ぶことを強力に求めてきたであろう
○それは、「倭国乱」という政情を早期に収拾し、外交窓口を一元化したい倭国側の思惑とも一致し、倭国再編への契機となったはずである
○三世紀のごく早い時期に、倭国は公孫氏との外交関係に踏み入ったことは確かであろう
○中国の史書は、このときの公孫氏と倭の外交関係に具体的にふれることはない
○しかし史書には現れないさまざまなアプローチが、公孫氏から倭の主だった部族的国家に対して試みられたのではないか
○それは倭のクニ・国にとって、大きな外圧としてのしかかったのではないか

卑弥呼共立を倭国内だけではなく、東アジア情勢と結びつけた壮大な説となっています。公孫氏の関与の根拠は、陳寿[ちんじゅ]の記した三国志の中の魏志韓伝の記述です。

○建安中 公孫康分屯有県以南荒地 為帯方郡…是後倭韓遂属帯方
建安中(196~220)に公孫康が(楽浪郡の)屯有県以南の荒廃していた地帯に新たに帯方郡を設置した。…倭も(韓も)このとき公孫氏政権のもとに内属した

魏志韓伝。現代語訳は『弥生国家論』(寺沢薫、敬文舎、2021年)の本文より抜き出し

「倭韓遂属帯方」は「倭との外交の所管が楽浪郡から帯方郡に替わった」という解釈をする研究者もいます。「内属」はわかりにくいですが、単に所属とか所管という意味ではなく、服属・従属という意味で使っているようです。

  • 倭と韓は公孫氏政権に内属した

  • 伊都国や奴国は女王国(卑弥呼の王権)に内属した

公孫氏が帯方郡を置いたのは204年です。卑弥呼は239件に帯方郡を経由し、魏に使いを送りますが、寺沢さんは3世紀の早い時期には公孫氏と外交関係があったとしているわけです。寺沢さんの説のとおりであれば、卑弥呼の都だった纏向遺跡には、卑弥呼を共立した九州北部や公孫氏との交流の痕跡が残っているはずです。

楽浪系土器の分布は九州北部に集中

ところが、坂靖[ばん・やすし]さん(元・橿原考古学研究所)、関川尚功[ひさよし]さん(元・橿原考古学研究所)は、以下のように指摘します。

庄内式期の纒向遺跡には,海外交渉を示す資料が極めて稀薄である。日本列島における楽浪系土器の分布の東限は,島根県山持[ざんもち]遺跡であり…
〇北部九州では…比恵・那珂遺 跡群などで楽浪系土器が集中的に出土し,当該期の外交拠点であったと考えられる
〇それに対し,纒向遺跡に楽浪系土器は皆無であり,外交拠点となったのは,布留式期以降 と考えられる

坂靖「ヤマト王権中枢部の 有力地域集団」(歴史民俗博物館研究報告 第 211 集、2018年)

〇古墳出現期という時期にかかる纏向遺跡において、金属器なり、大陸系の遺物が非常に少ないことは、むしろ意外ともいえる
〇それがこの遺跡に実態というものを現わしているとみなければならないであろう

関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)

図表2は日本列島における楽浪系土器の分布です(白井克也「弥生時代の交易」(第49回埋蔵文化財研究集会発表要旨集、2001年))。2001年の資料のためか、山持遺跡が含まれていませんが、楽浪系土器の分布は九州北部に集中していることがわかります。

図表2

※白井さんの発言要旨はネットで見られますが、図が掲載されていません。発言要旨集は国会図書館にもなく、明治大学博物館図書室で閲覧しました。大学図書館は一般人は公共の図書館の紹介状が必要なことが多く手間がかかるのですが、明治大学博物館図書室は一般人も自由に閲覧でき、コピーも1枚10円(トーハク資料館は30円)で感謝でした。

寺沢さんは「大阪市加美[かみ]、大阪府八尾市久宝寺[きゅうほうじ]遺跡などに楽浪系・三韓系土器がはじめてもたらされていることは重要である」(『弥生国家論』(敬文舎、2021年))と述べています。しかし、大阪府文化財センターにも問い合わせたものの、加美遺跡・久宝寺遺跡とも楽浪系土器が出土しているという事実は確認できませんでした。

寺沢さんは纏向遺跡の搬入土器に「わずかだが北部九州」があるともしていますが、これはどの試料を指しているのでしょうか。僕は、纏向遺跡の九州系土器は、鹿児島と考えられる破片が1つ認められただけだと認識しています(石野博信『大和・纏向遺跡』(学生社、2005年))。胎土分析によって新たに確認された試料があるのでしょうか。出典を示してほしいところです。

寺沢さんは本書のプロローグで「この本では、自説のみをひたすら主張するのではなく、できるだけ学界での対論も明記して対峙させることで、読者にその違いや問題点を正しく伝えることに意を払った」と述べています。

にもかかわらず、「纒向遺跡には,海外交渉を示す資料が極めて稀薄」だという坂さんや関川さんの指摘に全く答えていないのは残念です。

土器の状況からは、少なくとも、九州北部の勢力が纏向に駐在員事務所を構えたことはなさそうです。

公孫氏が倭国に外圧をかけた可能性はあると思います。そうだとしたら、当然、その成果を見届けるために高官(楽浪人?)が倭国を訪れ、滞在もしているでしょう。卑弥呼は239年以降は帯方郡を通して、魏に使いを送っています。しかし、纏向にはその気配が感じられません。

僕は図表2の楽浪系土器の分布を見たら、纏向遺跡が卑弥呼の都ではありえないことは、もうそれだけで明らかだと思います。

2.纏向遺跡の復元図は間違い

大型建物は箸墓の年代には廃絶:口絵の注釈は不十分

僕は2023/4/14、6/10のnote記事で「纏向遺跡の復元図は間違い」であることを指摘しました(どちらの記事も現在は非公開)。箸墓古墳の年代には、大型建物は廃絶しています。箸墓古墳と大型建物が一緒に描かれている復元図は間違いです(図表3)。

図表3

当初は「大型建物」と言われていた遺構が、いつか「掘立柱建物」になりましたが、寺沢さんは「大王宮」とまで言うようになりました。

本書では、復元図は以下のように使われています。

  • 復元図が、帯に使われている

  • 復元図は口絵にも掲載されていて、下部に「大王宮の存在と箸墓古墳の造営は時間的には先後の関係にあるが、ここでは同一画面に再現」と注釈が入った(図表4)

  • 口絵の復元図では、大型建物の配置が修正された(建物敷地面積が狭くなった?)

図表4

『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)より転載。赤丸・赤線を追加

本来はこの復元図はもう使用すべきではありません。間違いだからです。使用するのであれば、大型建物はすべて削除すべきです。

口絵に注釈を入れればいいというものでもありません。虚偽誇大表示を禁止する景品表示法では、やむをえず打ち消し表示を入れる場合は、隣接する個所に明確に表示しなければならないとされています。打ち消し表示が離れていたり、字が小さいと、読者(消費者)が気づかないことが多いからです。口絵の注釈は景品表示法の基準に照らせば不適切です。

注釈も「先後の関係」では、読者は意味が理解できないと思います。はっきり「箸墓古墳の年代には大型建物は廃絶しており存在しなかった」と記載すべきではないでしょうか。

大型建物の配置が修正されたのはなぜでしょうか。大型建物は柱穴跡をもとに忠実に復元されていないのではないかと疑問を抱かせます。

※寺沢さんは本書を2020年10月に書き上げたそうなので、僕の指摘を受けて注釈を入れたわけではありません。ただし、奈良県桜井市の資料(HP)ではまだ注釈もなく、以前の復元図が使われています。すぐに削除すべきでしょう。

大型建物は重要な建物だったのか?

そもそも大型建物のうち最大とされる建物D(19m×12m)は西側半分が箸墓古墳の前の年代の掘削により失われ、建物の全体像はわかりません。関川さんは以下のように述べます。

○最も規模が大きく中心的とされる建物Dについても、主柱の半数以上が失われているため、建物の全体像については理解が及ばないところがある
○主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた…特に前期の大きな区画溝による掘削のためである
○遺構の中心になるような重要な建物であれば、その後があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう
○はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない
○推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある

関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)

特に、復元のイメージが先行しているという指摘は重いと思います。

新しい大型建物が「存在したはず」という逃げ道

箸墓の年代には大型建物が廃絶していることについて、寺沢さんは以下のように述べます。

○纏向遺跡の盛期はむしろ布留0式期にかけてであるから、辻トリイノ前地区のこれらの大王宮(第一次大王宮)に続く第二次大王宮が必ず存在するはずである
○私(寺沢さん)は、布留0式期の第二次大王宮は、導水遺構が発見された家ツラ地区の山側一帯の可能性を考えているが、これもまた将来の課題である

箸墓古墳の年代までに最初の大型建物は廃絶したけれども、新しく別の場所につくられた「はず」だというのです。

「存在したはず」というのは、どこかで聞いたことのある議論です。

1つは近畿の「見えざる鉄器論」です。近畿には弥生時代の鉄器の出土が少ないです。それに対し、鉄器はあったが、腐食やリサイクルによって失われただけという説があります。寺沢さんはこれを批判しています。

もう1つは九州の大規模遺跡です。寺沢さんは3世紀の九州に大規模遺跡がないことについて、以下のように述べています。

○邪馬台国や卑弥呼が北部九州圏の問題だというのならば、具体的にそれはどの地域の、どの遺跡なのかを明確に挙げる必要がある
○しかもその候補は…三雲・井原遺跡群や、須玖遺跡群(二世紀以降は比恵・那珂遺跡群か)をしのぐ大規模遺跡で、政治的・経済的・祭祀的な先進地といえる地域になければならない
○(なぜなら)伊都国には代々王がいるが、みな女王国(卑弥呼の王権)に内属している(からだ)
○少しでも考古学の事情に明るい者なら、そうした遺跡も地域も九州に存在しないことはわかっているはずだ
○九州説ではこの根本にある事実をいったいどう説明するのだろう
逃げ道として常に使われるのは、「将来、発見される」というセリフだ
○であれば、せめてその可能性のある地域を明示し、考古学的な根拠を掲げて論理的に説明すべきなのである

近畿の鉄器や九州の大規模遺跡について、「存在するはずだ」という説を批判している寺沢さんが、纏向遺跡の大型建物については、箸墓古墳の年代に新しい大型建物があった「はず」だというのです。

寺沢さんは導水遺構を根拠に家ツラ地区と述べています。この程度の根拠でいいのであれば、九州にも平塚川添遺跡、吉野ヶ里遺跡といった大規模遺跡はあり、箱式石棺の集中や宮室・楼閣・城柵跡の出土といった考古学的根拠もあります。

吉野ヶ里遺跡の3世紀の石棺墓からは、大量の副葬品が出土しないことから、寺沢さんは吉野ヶ里遺跡は三雲・井原遺跡群や須玖遺跡群をしのぐ遺跡とは見ていないのかもしれません。しかし、墓制は地域によって違いがあり、副葬品だけが根拠になるわけではありません。

寺沢さんの発言には一貫性がありません。僕には「第二次大王宮が必ず存在するはず」というセリフは、大型建物が廃絶していることの逃げ道に聞こえます。

3.鉄器量は権力に直結する

近畿優越論を排すのは賛成

寺沢さんのユニークなところは、邪馬台国九州説と戦っているだけではなく、一般的な近畿説(近畿優越論)とも戦っていることです。

近畿の考古学は何かにつけ「近畿は古い、近畿は大きい、近畿は中心だった」と言う傾向があります。

2022年に発行された論文集『纏向学の最前線』の中には、纏向犬が大きいという論文までありました。僕は纏向犬が大きいことの根拠はないことを2022/10/28のnote記事にしました。発行者の纏向学研究センターはしっかり査読したのでしょうか。

  • 纏向犬は「体高」では中大型だが、「体高」は他の古代犬と比較できず、根拠にならない

  • 纏向犬は「最大頭蓋長」「下顎骨長」では中型で、弥生犬と同じである

  • 縄文犬にも中大型に匹敵するものがあり、時代とともに大型化したとは断定できない

  • 朝鮮半島南部の勒島[ヌクト]犬は弥生時代から渡来していた可能性が高い

  • 大陸と日本の古代犬のDNA調査をしなければ、大型化の原因が渡来だとは断定できない

※折しもこの記事を公開した翌日(10/12)に、奈良女子大が「纏向遺跡から発見された世界最古となるチャバネゴキブリの破片について」というプレスリリースを発表しました。破片が見つかった土坑は布留0式期のようですが、奈良女子大は3世紀後半としています。纏向学研究センターの見解のまま発表したのだと思いますが、布留0式期の実年代が確定しているわけではありません。年代の説明は土器型式のみ、または3世紀後半~4世紀前半とすべきです。それにしてもゴキブリの破片が1700年も残っていたのが驚きです。

寺沢さんは近畿優越論を排します。その点では、僕は寺沢さんの指摘に賛成です。

その1つとして、一般的な近畿説は「2世紀末までの倭国乱によって、近畿が九州に取って代わって、鉄器の覇権を握った」というように主張していますが、寺沢さんは鉄器は3世紀半ばまで、九州が近畿に比べて圧倒的に多いことを指摘します(図表5)。 

図表5

『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)より転載

鉄器の量というと、安本美典さん(元産能大学、邪馬台国の会主宰)が同じように鉄器の都道府県別出土量のグラフを示しています。安本さんは弥生時代を通した出土量を比較しているのに対し、寺沢さんは「弥生中期まで」「弥生後期」「弥生終末期(寺沢さんは古墳時代初めと呼ぶ)」と年代を分けて集計しています。寺沢さんのグラフは邪馬台国の時代(3世紀前半)の出土量が明確で、より説得力があります。

卑弥呼が近畿から西日本支配は無理

ただし、寺沢さんの以下の指摘は誤解を招きます。

○この時代にあっては、共同体内の生産力や経済力などの要素はいまだ政治権力の形成には直結しない

ここで寺沢さんがいう生産力・経済力とは、鉄器や米による生産力・経済力を指します。

確かに、米は弥生時代にはまだ広く食べられていたわけではないのは、その通りです。僕も2023/3/8にnote記事で紹介しました。

  • 弥生時代に水田稲作が普及したというのは幻想であり、耕作と休耕を繰り返していた可能性がある

  • 弥生人の人骨からコラーゲンの由来を調べても、米の依存度は高くなく、水田稲作が一気に広まったわけではないことを裏づける

鉄器は違います。近畿では普及していなかったのは事実ですが、九州北部ではある程度行き渡っていたと思います。

鉄器は軍事力としても、耕地開拓や集落建設のための土木力としても、政治権力に直結したことは明らかだと思います。「政治権力の形成には直結しない」と一般化するのは疑問で、「近畿では」と限定すべきでしょう。

  •  鉄器による生産力や経済力などの要素は、いまだ政治権力の形成には直結しない

  •  近畿では、鉄器による生産力や経済力などの要素は、3世紀前半まではまだ政治権力の形成には直結していない

寺沢さんは卑弥呼の政権の支配体制は整備されていたと述べます。

○大倭[だいわ]と大率[だいそつ]という二つの監察機関の存在に注目すれば、いままで過小評価されるきらいのあった卑弥呼政権の中央・地方の支配関係が思いのほか広域におよび、しかも整備されていた実態をあらためて確認することができる
○この点は、卑弥呼政権=邪馬台国が強大な権力をもたない九州の一小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがす問題であろう

鉄器による政治権力に格差がありながら、卑弥呼の都が近畿にあって、西日本全体を支配していたとは、僕には思えません。

4.箸墓の築造完了は布留0式新相ではないか

寺沢さんは「(箸墓古墳は)布留0式古相期のなかで築造が終わっていた」としています。

箸墓古墳の築造前の土器が布留0式期古相段階であることはともかく、築造後の土器も布留0式古相段階とすることは疑問です。「(土器に)やや新しい要素が見られる」のであれば、築造後の土器は布留0式新相段階とすべきではないでしょうか。

歴博が箸墓古墳の築造直後の年代を240~260年と発表した2011年論文「古墳出現期の炭素14年代測定」でも、箸墓古墳の築造は4段階に分けて以下のように記載されています。

  • 第 1 段階:周濠部分掘り下げ、排土は墳丘部へ運ぶ

  • 第 2 段階:盛土を行い、外堤を盛り上げる。葺石を施す。古墳完成。NRSK–C20(試料番号)

  • 第 3 段階:周濠下層に木製の鍬や用途不明品の投棄。NRSK–C21、C22、7

  • 第 4 段階:周濠上層が堆積。周濠の埋没。布留1式期。NRSK–C23、C24、C25

歴博は第3段階を「箸墓古墳築造後」としています。この段階の土器は布留0式新相段階です。

ちなみに、図表6の赤丸が布留0式古相段階の土器の出土位置、青丸が新相段階の小枝の出土位置になると思います(どちらも僕の推定です)。古相段階が外濠、新相段階が内濠であることがわかります。

図表6

(2024/5/9最終更新)

#寺沢薫 #卑弥呼とヤマト王権 #邪馬台国 #邪馬台国近畿説 #弥生時代 #古墳時代

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