ささやかな絶望
とある記事を読んだ。
ジュエリー屋さんが、リングの着用写真を使わない理由について。ルッキズムに支配された広告に込められたメッセージに、ささやかな絶望を積み重ねてきたジュエリー屋さんの怒りと悲しみが、ひとつひとつの思いを取りこぼさぬように丁寧に綴られている。
きっとこの記事、泣きながら書かれている。そう思ってしまうほど感情が言葉に滲んでいる。怒りと、その反動から生まれた強い意志。それらが私にまっすぐに届いた。
言葉を扱い情報を発信する人間として、私が大事にしていたいことがここにある。私はささやかな絶望が嫌いだ。でも、誰のことも傷つけない記事を書くことは難しい。誰かにとっては嬉しい言葉が、ほかの誰かの傷や痛みの増幅剤になり得る可能性がある。すべてを想像することは、残念ながらできない。時間も体力も限られているし、ひとりひとり感じ方は違うから。
せめて。
せめて自分の限界まで想像できる人でありたい。想像する余裕を持てる人でありたい。想像することが誰かを守り、助けることになるかもしれない。私は目の前に見えていないものを想像するのが苦手だからこ、意識的にやって行かねばと思う。
てまきることならこの記事を書いた人がもう悲しまなくていいように、ささやかな絶望が減るように、選択肢が増えるように。そう願いを込めて文章を書いていきたいと思った夜。
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