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第1節 米沢城の構成と堀周辺のこと

1-1 米沢城の構成と概要

  城郭を区分する区画を、曲輪(くるわ)といいます。江戸時代以降は、それを丸ともいわれるようになりました。

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 曲輪には、梯郭式、輪郭式、並郭式等のいくつかの形状がありますが、米沢城は図1-1のような輪郭式曲輪です。それぞれの区分を本丸、二の丸、三の丸といい、米沢城は、それぞれの丸を堀で囲む構造となっていました。
 上杉家が入部するまでは、米沢城の正門は北に置かれていました。慶長6年(1601年)、米沢藩初代藩主、上杉景勝が米沢城に入城すると、家老の直江兼続は、正門を東門に改修しました。

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 図1-2は文化8年(1811年)の城下絵図ですが、これが江戸時代の本丸、二の丸の配置です。
 本丸の入口には二階建ての大御門を南向きに置き、その正門南側に、藩祖、藩祖、上杉謙信祠堂が置かれました。
 さらにその外側の二の丸には、小御門が東向きに建てられました。現在の伝国の杜のロータリーと駐車場になっている辺りが、その位置になります。
 本丸には、藩主の居住する御殿、藩政を行うための施設が置かれ、また、ここは、戦いの際には、将兵の駐屯施設として城郭の最重要な施設を担いました。
 二の丸には、二之丸御殿、真言宗寺院の寺町、作業室、厩(うまや)、御蔵、味噌御蔵 青苧御蔵 御勘定所等、米沢藩の執務を行うのに必要な施設が置かれました。

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 城は既に取り壊され、上杉神社を中心とする松が岬公園となっています。本丸の堀は、そのまま遺されており、多くの観光客で賑わっています。
 二之丸御殿は、現在の上杉城史苑と、松が岬公園駐車場のある一帯にありました。二の丸の堀跡も一段低く遺されています。
 真言宗寺院の寺町は、上杉伯爵亭から児童会館にかけての通りになります。それらを取り囲んで二の丸の堀が巡らされていました。堀に沿う町は、東堀端、南堀端、北堀端町です。
 米沢市児童会館周辺に見える堀は、二の丸の堀の一部です。
表1-1は、図1-2に記されている堀の寸法を拾い、一覧にしたものです。堀の規模がわかります。

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1-2 米沢城下町三の丸の堀周辺

 慶長13年(1608年)より、米沢藩家老、直江兼続のもとで、三の丸の堀の掘削が開始されました。その堀の土塁の総延長は4kmにも及びます。
 享保10年(1725年)の米沢御城下絵図によると、現在の周防殿町通りと清水町下通りのT字路から、清水町下通りに沿って掘がありました。これが三の丸堀です。図2-1がその図となります。

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 図2-1によると、堀の広さは15間(27m)、深さが2間(3.6m)となっています。この規模の堀が清水町下通り(現在は城北2丁目)に沿ってあったことがわかります。
 清水町下通りに沿って、図2-2のような樹齢を重ねた森になっている箇所があります。幅は6間程のありますから、かつての土塁跡と推測されます。地域の人に尋ねると、「そこは、その昔、土塁らしき北側には大きな池もあり、ナマズ等の魚も住んでいた。」と説明してくれました。現在は、その池も埋め立てられ、白樺住宅団地の一部となっています。

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 図2-1の土塁北側をたどってみますと、かつて堀があった所で、一段低い窪地となっています。
 堀は、現在の北部コミセン西側で方向を変えて、三友堂病院駐車場南側から、東方向に延長されています。図2-1では、堀長4町55間(535.45m)、広さ15間(27.3m)、深さ2間(3.64m)と記されています。
三友堂病院駐車場南側は、この図の寸法のように2間の土塁の跡が、図2-3、のように遺されています。

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 この堀は、米沢城の北の玄関口の所までとなり、いったん閉じられます。
 それらの堀跡も一段と低い窪地や湿地帯となっており、土塁の跡も所々見られます。堀を埋め立てた所に作られた住宅は、地盤沈下が起きて、その土台が不安定な状態にもなっています。

1-3 三の丸北側の武家屋敷、馬場、清水町

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 図3-1は、文化8年(1811年)の米沢御城下絵図です。この図よると、堀立川の周防殿堰橋の右岸、左岸側一帯には、清野(きよの)家下屋敷と記されています。それは三の丸堀に沿って米沢藩馬場の北口近くまで及ぶ大屋敷になっています。清野長範は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で、後に清野周防守と名のりました。蘆名から上杉の家臣となり、米沢藩移封後の上杉景勝に従い、藩内1000石を越える重臣だったといわれています。周防殿橋、周防殿堰、周防殿町の名が残りました。
 周防殿堰から引かれた水は、清野家下屋敷の生活用水となり、水路は塩野村まで流下し、その流域を潤しました。享保10年(1725年)の絵図(図3-1)では、清野内膳、文化8年(1811年)では清野伊勢松と記されています。

 また、それに続くように、三の丸掘の北側沿いには、色部家と記されています。享保10年(1725年)絵図には色部典膳(てんぜん)、文化8年(1811年)絵図(図3-1)には、色部弥三郎と記されています。色部典膳は江戸家老を務め、竹俣当綱等と共に米沢藩を支えた重臣でした。
 図3-1によると、上杉藩馬場の北側の入り口が堀に面していました。馬場の面積は、2町5反(2.5ha =7,500坪)と記されています。馬場周囲に山桜が植えてあったことから「桜馬場」ともいわれ、そこには、藩校興譲館の前身ともいうべき、松桜館があったとも伝えられています。
 米沢興譲館史には、「明和8年(1771年)、 第9代藩主上杉鷹山が学問所を再興した際に、招聘した細井平洲を、馬場御殿の松桜館に迎えて学生に講授、以後10か月間滞在する。」と記されています。
 馬場の東側通りが清水町で、水性寺、清水守という記載もあります。ここに自噴していた清水が、上杉謙信の供養水として使われたといわれています。町名も「御清水町」です。
 図3-1は文化8年(1811年)の米沢城下絵図ですが、上記に関することが記されています。

1-4 粡町公園から南進する堀

 図3-1によれば、城下北の三の丸堀は、清水町下通りに沿った北部コミセン北側で三友堂病院駐車場南側に方向を変えます。そこから堀は、現在の米沢裁判所北側裏まで続き、そこで閉じられます。

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 図4-1によれば、現在の五穀稲荷神社のある粡町公園から、堀はあらためて南進します。

 五穀稲荷神社は、その土塁の上にあります。(図4-2)

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   土塁の規模は、絵図によると、高さ2間(3.64m)、幅7間(12.6m)です。神社の位置は米沢城本丸から見て北東端にあることから、鬼門の守り神として建てられたと考えられています。土居跡は現在粡町公園の一部となっており、米沢城下町の貴重な遺跡となっています。
 ところで、稲荷というのは、五穀をつかさどる食物の神のことで、稲荷神社はその神様の社ということになります。しかし、現在では商工業を含め産業全体の神として信仰されています。
 神社のうちで稲荷神社は2970社、主祭神としては32,000社を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼるといわれています。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が、神道上の稲荷神社の総本宮となっています。
 城下北東側の三の丸の堀は、五穀稲荷神社の所から南進して、米沢商工会議所西側を通り、藩校興譲館北裏まで続きます。土塁内側は土手ノ内番匠町、その西側通りは番匠町です。番匠は大工という意味です。越後から米沢城下町建設のために移り住み、その大工達が住んだ町です。現在は中央2丁目(幸町)です。
 
 藩校興譲館は、皇大神社南側、現在では米沢医師会館の位置にありました。米沢興譲館史には、「安永5年(1776年)学館落成、細井平洲、興譲館と命名、定詰勤学生20名、細井平洲、米沢下向、興譲館の学制を定め、学則を揮毫する。」と記されています。藩校興譲館からは、米沢を支える有意な人材が輩出されることになります。

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 図4-4は興譲館の図です。正面左側に学館好生堂が置かれました。これは医学を学ぶ学舎です。当時の医学は、本草学を中心とした内容でした。好生堂は寛政5年(1793年)、屋代町の御国産所内に設立され、文化8年(1807年)、興譲館内に移設されました。
 興譲館は元治元年(1864年)の米沢大火の折、類焼し、門東町の講武所内に聖堂、学館、好生堂を再建しています。


1-5 米沢城東側の三の丸周辺

 堀は、藩校興譲館北裏からは方向を変えて、茶筅町にある開運稲荷神社まで東進します。
 そこで、再び南に方向を変え、途中、その土塁跡に置かれた西条天満神社を通ります。そこには、江戸時代の三の丸堀の土塁と共に、神社がそのまま遺されています。

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 図5-1がその様子です。この図では、土塁の左手が武士の町、三の丸で、堀より手前側が商人の町、大町です。
 西条家は、上級家臣団の侍組に属し、門東町に屋敷を構えました。屋敷神社としていた天満神社を屋敷裏の三の丸土塁上に移設した後には、門東町の鎮守としても信仰を集めました。近隣の人達も、学問成就などを祈願して、石灯篭や絵馬等も奉納されました。
 現在の社殿は、大正6年(1917年)の米沢大火で類焼した後、多くの浄財が集められ、同11年(1922年)に再建されたものです。西條天満神社は、五穀稲荷神社と同様に、三の丸の堀の土塁跡と共に大変貴重な歴史遺産となっています。
 この堀と土塁の西側が三の丸で、堀に近い通りが武士の町の門東町です。堀の手前側が商人の町、大町となります。
 堀は、札の辻、九里学園高東側を通ります。図5-2には、堀が示されていますが、そこを埋め立てられて九里学園高校の建物とグランドが建設されていることになります。
 図5-2、図5-3に記してある武者道は、、原方衆の侍達が、城下で買い物等の用事がある際に使用した道です。武士だけに通行が許されました。それを利用した原方衆は、城外南部の南原、長手新田、六十在家、山上通町等に住む人達です。武者道は、三の丸の堀とともに建設され、原方衆が、武士としての誇りを持って歩いた道といわれています。

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 なお、図5-3では、武者道に沿って地蔵川があり、城内、城外の各道路の中央に水路が通されていたことがわかります。


1-6 城下西の地域の堀と掘立川

 直江兼続は、灌漑水を確保するため、松川上流、南原李山地区内に猿尾堰に建設しました。図6-1のように、取水された水は、掘立川を流下させ、城下南部、北部では、灌漑水として使用されました。城下では防衛の堀として利用するようにしました。

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 堀立川は、城下西側の福王寺付近から周防殿橋近くまでを複断面水路とし、三の丸堀の代用ができるようにしました。

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 複断面水路とは、図6-2、図6-3のように、河川断面が低水路と高水路で構成するものです。水は、平時は低水路を流れ、敵が攻めて来た時には、堰止めをして高水路まで水位を上げてしまいます。堀となった堀立川で敵の侵入を防ぐというものです。その堀は高水敷から1.5m程水位を上げ、低水路と合わせて水深が約2間(3.6m)、掘幅は約15間(27m)になるように作られました。このことから、堀立川は堀盾川と記しているものもあります。このように、掘立川は、城下西方の盾となり、北部地域の田畑を潤しながら、松川に合流しました。
  城内西側の堀立川は、千坂家の屋敷のすぐそばを通ります。ちょうどその西側には、堀立川とは別に、新たな三の丸堀が設けられています。それは、代官町、猪苗代町を通り、方向を変えて、すこやかセンター、アクティの北側、周防殿橋前までを結んでいます。この堀を満たす水は、千坂家の近くに堰を設けて取水したのではないか、とも考えられています。
 なお、千坂家は、関東管領家以来の上杉家重臣で、米沢藩の侍組分領家に列して、藩の重職を担いました。上杉謙信時代には本陣警護、景勝時代には初代江戸家老も務めています。
 図6-4のように、城下西側地域には、「西の盾」といわれる堀が設けられています。その背後には五十騎組の家臣団を配置し、併せて西の備えとしたものと考えられます。
 五十騎組というのは、米沢藩初代藩主、上杉景勝の旗本です。現在の地図では、桂町にある堀立川橋東側手前から南に向かう通りです。新町名では松が岬2丁目です。

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 図6-4に記したように、千坂家北側より、城下西側、北側を囲む三の丸堀の水が供給されていたものと思われます。
 図6-1によれば、猿尾堰の標高は370m、米沢城下は250mとなっています。兼続は、この120mの高低差を巧みに利用し、灌漑水路、生活用水路、城を取りまく堀にも水が行き渡るように、米沢の町を作り上げたのです。

次回は、「第2節 米沢城下の主な町」についてです。



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