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お土産、買う?_2024年3月22金/快晴

ここに、「栃木の味 レモン入り牛乳」がある。
栃木に出張した人が、みなさんでどうぞと仕事場に一箱を置いたのだった。
中身のお菓子は、おおよそ仕事場で働く人の数だけある。
「栃木の味 レモン入り牛乳」が名物なのかは知らないし、
出張のお土産というものは珍しくないけれど、
そういうものがあればあったで、「お!」となるのはうれしい。
こういう、出張とか旅行とかに行った人が「みんな」のために買ってくる
「行ってきました土産」のことを、わたしは嫌いではない。
なんだろう、お土産の選び方に、「その人」がみえるからかな。
これは定番!という名物を買ってくる品質保証人がいたり、
わざとヘンなやつを選ぶ人もいたり、
いいことあったかなぁなどと思って、食べるのだが、
「で、出張はどうだった?」と、いつもその人に話しかけることはない。
話したり、話さなかったりのほうがぴったりくる。
「ありがとう、で、どうだったの?」と話を聞くのは大好きだけど、
いつもいつも「どうだった?」をやっていたら、
お土産をもらうのに疲れてくるのではないだろうか。
買う側のじぶんといえば、
旅行がおもしろかった!というきは「わざとヘンなやつ」を選んで
その「おもしろみ」をだれかに聞いてほしいと願うことが多い。
でも、急ぐときは値段と数だけ確かめて買ったり、
なくてもいいかと思って、ほんとうに買わなかったりもした。
「行ってきました土産」については、
かたちだけとか、なんなら買わないという姿勢も肯定したい。
ようするに、買いたかったり買いたくなかったりするものである。
あってもなくてもいいので、なんとなくよろこんで食べるのである。

おおむね、旅先からは「みんなへのお土産」が持ち帰られる。
留守を守ってくれたお礼のような気持ちを表すのは、
「つきあい」を続けるうえでもすばらしいことだ。
ただ、思えば、それを「習慣」とすることがわたしは嫌だった。
旅はじぶんが満喫するものであり、
そのことと「みんなへ」お土産を買うことが結びつかなかった。
むしろわたしにとってのお土産は、じぶんのために買うもので、
おもしかったと言いたい人にだけ買えばいいとも思っていた。
いまでも、旅はじぶんのものだと思うけど、
だけど、いつからか、
「行ってきました土産」もいいじゃないか
と思っていることに気づいたりもしている。

一方で、いまの時代は「おみやげ禁止」の職場なんかもありそうだな。
買わなきゃいけない、もらわなきゃいけない、という
誰もが感じる気まずさを取り払いましょう、とか、
仕事上で無駄ではないか、とか。
集団でもやもやすることを「制度」でやめるのはひとつの方法ではある。
そういうことでは、義理チョコ禁止なんかも同じかな。
でも、ね、
「旅がよかったよ!」と、だれかに言いたい気持ちを
「行ってきました土産」で伝えるというのも、
それはそれでアリなんじゃないかと思うなあ。

古い話で申し訳ないけど、
バブルの頃、ハワイに行く人がやたら多くて、
土産といえば「マカダミアナッチョコ」だった。
頻繁にだれかが職場にもってくるものだから、
「マカダミアナッツチョコ」は食べきることができず、
給湯室にどんどん積まれたりした。
そういえば、積んであった古い箱から、
いつのまにか中で育っていた蛾がでてきたこともあったっけ。
だけど、みんなは、「またマカダミアかよ」なんて言いながらも、
買ってきた人のハワイでの「できごと」をそれとはなしに聞いていた。
いまのように「リアルタイムで発信」なんてないから、
その人の「できごと」は「思い出」として多少は脚色されるのだけど、
その語り口に、その人なりの味わいがでておもしろかった。

そうか、「行ってきました土産」は、やってきたお客さんなのか。
べつにいなくても生活に困りはしないけれど、
そこにいればいるだけで普段の世界が彩られてうごく。
どんな姿かたちでも、たとえ話をしなくてもさ。
だいじなものと持ち上げるわけではないけれど、
なんか「行ってきました土産」のことを肯定したいと思うのでした。

お土産の菓子って、甘いものが多いよね。


よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。