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揺れるこころ_2024年3月28木/曇り

なにかを食べたとき、それがおいしかったら、
「おいしいなあ」と、たいていは思うでしょう。
人に伝えるときは、「おいしかった!」と言うかもしれない。
つくった人と話すとしたら、
「おいしい」とか「おいしいね」とか、
「おいしかったよ」とか、
やっぱり、じぶんの感想を伝えるのだろうね。

いまだったら、そうだな、みごとな桜並木でも見たとき。
あのピンク色のトンネルから、花びらが降りてくるのを見たら、
「うわぁ」とか「すごいな」とか、「きれいだなぁ」とか、
そういう心の「!」が口をついて出てくるはずだ。
写真を撮るのも、その「!」がもとになっている。

思えば、こんなふうな「!」って、
誰にそうされるでもなく、
じぶんが心のなかで「!」と思っていることなのだ。
同じものを見聞きしても、
こちらの機嫌が悪かったり、忙しくてそれどころじゃなかったりしたら、
「!」とは受けとれないのではないか。
つまり、「!」になってもいいという状態のしぶんが
「!」を感じているということだと思うのだ。
これって、当たり前のようだけど、
わりと忘れられていることのようにも思うんですよね。

いつごろからか、「癒される」という言い方が多くなっている。
ここが和んでほっとするようないい気分を、
あなたのおかげという気持ちとあわせているのかな、
でも、そう言いたくなるときだって、「!」はあるはずでしょう。
赤ちゃんや動物のしぐさに「癒された」とかいうときも、
じぶんが、いい気分になろうと思っていて、
いい気分になってもいいかな、
あぁ、いい気分になってしまうけど、まいっか、
なんて、いい気分になることを許した。
しぐさを見てうれしいなぁと感じて、
赤ちゃんや動物がそうしていることをしみじみ思い、
その存在をありがたいとも思った。
そのしぐさは、じふんのためにしてくれている、ととらえてみた、
と、なる。
こういう「!」の動きを、
「癒される」と相手がしてくれたように一気に変換すると、
せっかくじぶんが心を動かしたのに、
その体験が「なかったこと」にされてしまうのではないかなぁ。
誰かによってではなく、じぶん自身が心を動かしたとわかっておくことは、
人との関係を考えたりするときに大切な気がしている。

「!」は、つかみにくくて、ことばにできないことも多い。
だけど、なんだかつかめなくていいから、
くっと動いたそのことを感じておくことが、大事なんじゃないかなぁ。
そうすることが、「思い出」を深くすることにもなりそうだ。
同じような「!」をなんども体験するうちに、
じぶんはどんなことに心が動くのかわかるかもしれない。
やがてそのうち、そのことでうまいことが言えるようになるかもしれない。
なんだそんなことかと思われそうだけど、
心の動きを省略ばっかりしないということなんだろうね。
わたしはどうしてるかといえば、
できごとがやってきて、そのことでじぶんがどうなったかを書いて、
じぶんと同じだと少しでも思ってもらえばいいな、
と、といまのところ思っている。

なんか短縮型ばっかりが流行るよね。


よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。