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きれい好き<2024年2月8日木/晴れ

先日、新しく着任した管理人さんと立ち話をしていたら、「藤浪さんは、きれい好きですか」と聞かれたので驚いている。聞けば、わたしが雑巾を持ち部屋を掃除する姿をこの前も見たという。

そうか、じぶんは「きれい好き」なのか。そんなこと思ったこともなかった。

「きれい好き」を潔癖症のような意味で使う人もいる。このときの管理人がそうなら、わたしは清潔にしていないと気がすまない人ということになる。思いおこしてみると、そう言われると、そうかもしれない。

たしかに、チリヤホコリのないのが好きだから、よく掃除する。きれいになったところを見るのはうれしい。

告白すると、小学生のととき、学校にある鶏小屋を自ら進んで掃除したこともある。あのとき誰も掃除したがらなかったから、ニワトリが不憫だったこともある。変な人と思われるかもしれないという恐怖もあったけど。

だが、待てよ。
「きれい好き」というなら、もっとすごい人がいるではないか。
昔、几帳面な人の炊事を手伝ったときは、肉をいちいち測って冷凍するとか、流しの水滴は拭いておくとか、きれいを保つための決まりがそれはもう細かくて参った。あとになって、わたしがみりんの蓋を開けっぱなしにした、と小言をもらったこともある。そんな人にはかなわない。

それにわたしは、こっそり言うけど、回収日でなくてもマンションのゴミ置き場にゴミを出すような人間だ。
駅のトイレにある「自宅のトイレと思って使いましょう」という張り紙をみて、説教くさいなと思うこともある。

これで「きれい好き」といえるのだろうか。

はっきりしないな。
清潔で気分のいいところにいたいから、掃除するわけだ。
ならば、「きれい好き」を「掃除する・しない」で考えてみよう。

考えてみれば、通り過ぎるだけの駅やビルのような、長く時間を過ごさない場所では、多少の汚れは気にならないだろう。
だから、わたしも含めて多くの人はそのようなところで掃除しない。自分にかかわる場所だけと、自分のものではないからという理由も大きい。

駅のトイレにいたっては、結構汚れていようが掃除しようと思う人はまずいないだろう。食堂のテーブルや銭湯の湯船なんかを掃除しない理由も、同じようなものだ。

毎日通うオフィスの汚れなんかも微妙だなぁ。じぶんの居場所といえばそうだし、そうでないともいえる。このへんは人の感じ方によるだろう。

こんなこと考えていたら、掃除という行動が不思議に思えてきた。

人が掃除するようになったのは、定住を始めた頃からだといわれている、らしい。
寝ぐらを移していれば、じぶんたちの出した食べかすやゴミは、そのまま放って置けば自然が処分してくれる。寝ぐらはいつだって清潔だし、ホコリもたまらない。
たいていの動物は、いまでもこの便利なシステムを採用しているため、掃除はしない。

いまは、なにもかも区切られ固定されたところを行き来しているのだから、人は掃除するしかしかたないではないか。

あぁ、わからなくなってきた。気をとり直そう。

結論。
清潔なところにいるには、いまは掃除するという選択しかない。
「きれい好き」は、その清潔なところにいたいという欲求に対して、愚直に行動する状態ではないか。ただ、それはじぶんの大切なところに限る。
人は、ときどき「きれい好き」で「きれい好き」ではないだろう。

以上、今日のレポートを終わります。

清潔を保つといえば。
寺の修行で掃除するのは、ほんとうのところ、なにを目的にしてるのだろう。学生が校舎を掃除するという日本の教育プロクラムを、最近ドイツがお手本にしていることも聞いている。
このへんの、「きれい好き」と心の関係についてもそのうち考えてみたい。





よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。