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文章の書き方_2024年3月7木/晴れ

よく、「どうすれば文章がうまくなりますか」という質問がある。
わたしといえば、その答えを
「好きな作家の文を書き写すのですよ」と上司から教わったことがある。
使っている漢字はそのまま写して、
文を改行する位置も変えずに、一字一句を覚えるくらい
何度も写せばそっくりの文が書けるという、
元広報部の課長で小説家志望の彼女のことばに野心を刺激されて、
わたしは好きだった片岡義男の文を写経した
(片岡作品はいまだって好きにきまってる!)。
ここはこんなふうな順番に書くのだな。
視点はこんなふうに切り替えるのだな。
文体が好きということは、考え方が好きということだ。
だから、写経するうち、どんなことを考えているのか知りたくなってくる。
そんなときに、です。
作品のなかで「その作家が刺激をうけた作家」をみつけることがある。
お宝発見である。
「作家が刺激をうけた作家」は
作家のなかで渦巻く考え方の「源流」なのだから、
遡っていけば、作家という「水」の性質がわかるはずなのだ。
たいていの人はこう考えて、「源流作家」の作品も読んでみたりする。
同じ「源流」をとりこめば、同じ考え方になる可能性が高いというわけだ。
わたしも、当然とばかりに何人かの作家でそうしてみた。
ただ、これがねえ、
実際に「源流作家」を作品をみると、
ここをまねたのだな、とわかりやすいところは確かにあるのだけれど、
そうでないところもあるのですね。
いや、そうでないところのほうが多いかもしれない。
しょんぼりしてから、
作家の「源流」はひとつではないとようやく気づいたりもした。

いわんや、「源流作家」も「源流」を持っていて。
その「源流」を代々遡っていくと、
いつか本質的な「水源」にたどりつくかもしれない。
もうやろうとは思わないけど。
では、「水源」の水はどこからきたのか。
それは、じぶんやほかの水源から流れ出た水がまざりあい蒸発し、
雨になって染みてきたものだ。
すべての土台のような「水源」の水も
そこから始まるものではない。

考え方や作法の「源流」を遡ることはおもしろいけれど、
絶対的な源はないのだとしたら、
やっぱりいま集めた材料で書いてみるしかないと思う。
うまく書くのではなないですよ。
集めてきた材料を、捏ねたり、切ったり、貼ったりして
文のかたちにする。
このことを、よろこべばいいんじゃないかなあ。

作品に成分表示があったら、
いくつもの「源流」と取材と時間と汗が印字されているであろう。


よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。