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かげふみ

温泉のある駅につくと、宿までは一本道らしかった。
大きな狐の像がある駅を背にして、ガラガラと荷物を引きながらまっすぐ歩いていく。
日差しが強い。今度の旅で、日差しの温度を感じたのはこれだ初めてだった。
荷物を引っ張っているので、ゆっくり歩く。
目の前を学校帰りの小学生が遊びながら、歩いている。
女の子二人は、なんと呼ぶのだろう、少しくびれた今どきのスケートボードのようなものを持っている。
それを頭の上に掲げたり、前に差し出したり
そうして、何やら進む方向とは直角を向いて「カニ歩き」で歩いたりしている。
すぐに、その子達が「かげ」を見ていることに気づいた。
二人の女の子は、強くなった春の日差しにくっきりと出た自分たちの影を
カニ歩きで眺めながら
楽しそうに進んでいく。

ついこの前観た映画の一シーンのことを思い出す。
ヴィム・ヴェンダースの『パーフェクト・デイズ』の中で
がんに冒されて死期の近い男と、淡々と毎日を過ごす初老の男は
突然、かげふみをして遊ぶ。
大人はもうすぐ死ぬという時まで、自分の「かげ」のことなどずっと忘れている。
こどもは、なんとかボードという今風のおもちゃを持っていても、
誰に教えられなくても、自分のかげと遊ぶ。
人間は、一体いつから自分の影を忘れてしまうのだろう。

自分よりも、自分のかげの方が、本当はこの世界にいる自分というものをよく表しているというのに、そのことを全く、ほぼ完全に忘れてしまう。
人間はこの地上に映ったうつろう影でしかないことを否定するためにだけ、
それを忘れ、本体こそが自分であるのだと、肩書きをつけてみたり、背広やドレスを着飾ってみたりして、なんとかそこに実体の厚みを与えようとする。
自分がうすぼんやりした影にすぎないなんて、考えの端にも及ばないように、
大人は絶対に影と向き合わない。時々、人のいない路地を曲がったところで、電灯に照らされた影が異様に伸びて、誰かがそこにいるのかとぎょっとする時以外は。

子供は影が自分の分身であること、否、自分が影の分身にすぎないことを知っている。私は私を見ることはできない。でも自分の影を見ることはできる。
面白いじゃあないか、影の野郎。いや、影の自分。自分、ですらない、何かの陰影。

くっきりと映った女の子の影は、なんとかボードの車輪のおかげで、小さな怪獣のような形になった。私はその影を思い切ってふんづけて、「かげふみ!」と叫んで女の子の世界に入ってみようかと思った。思っただけで、もちろんそんなことはしない。それは私が大人だからではなくて、女の子が今も笑っちゃうような「カニ歩き」で、もう二度と訪れることのない春の午後の光の中に命のほかげ、の、かげをあまりにもくっきりと、くすくすと踊らせながら前を歩いているからだ。誰かが自分の影とはっきりとつながって本当の時間を生きている時に、それを横から突然踏んづけるなんて、あまりに乱暴だと思ったからだ。それよりも、大きな荷物を二つも背負い、ガラガラとスーツケースを引いている私の影は、どんな形だったのだろう。いつしか女の子たちを追い越して、歩いていた。私もいっそ「カニ歩き」してみようか。そうしたら、今度は女の子たちがくすくす笑いながら「かげふみ!」と叫んで、詰み忘れた荷物の山のような私の影の上にジャンプして、私を人間の姿に戻してくれるかもしれない。





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