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映画『イニシェリン島の精霊』自分の人生を問われる哀しくも美しい人間の物語

中年期以降の人間ならば誰にでも思い当たるであろう「誰かとの分かれ道を感じた瞬間」の寂しさとやるせなさをこの『イニシェリン島の精霊』が恐ろしくも可視化してしまったのかもしれない。私自身は去ってしまったことも、去られてしまったこともどちらも経験がある。多くの人がそうであろう。

また同時に、この作品では「人生を豊かに生きるとはどういうことか」ということについてとても真剣に考えさせられる。価値観が多様になり様々な生き方や暮らし方が肯定されているように思えていても、実は人間の根底にある悩みは何も変わっていないのではないだろうか。なぜならこの映画を観てなお、「では自分はどう生きるのか?」そう考えてやまないのだ。

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自分だけは価値のある人生を送りたい、自分はその日暮らしで意味のない時間を過ごしたくないという少なからず多くの人間が持っている、至極当たり前で一見すると前向きに捉えられがちなその願望は本当に正しかったのだろうか。

馴れ合いだけのつまらない生まれ故郷を出て自分だけの人生を勝ち取ると決めた時、地元の人間関係や実家の煩わしさなどを「面倒なことはあの人に任せておけばいい」と悪気なく思ってしまったことが自分に全く身に覚えがないわけではない。
自分があの時、「こんなことは取るに足らないこと」と思っていたことが、本当は間違っていたのではないのだろうか。

反対に、ついこの間までは普通に接していたのに、急に遠くの存在に感じられてしまった友人、寂しさと嫉妬と切なさで感情が追いつかなるあの時の記憶もまた思い起こされる。

自分一人が取り残されてしまったような気持ちになり、自分の良いと思っていた人生や暮らし方が全て無価値だったのではないかと不安になってくる。長年、精神的につながっていると思っていたあの人との関係があっさりと消えてしまった虚しさと言葉にできない悲しさ。
家と職場の往復でたまの贅沢に外食したりするだけのつまらない生き方をしている自分。本当はもっと自分の生活を人生を真剣に考えた方が良かったのではないか。

この映画に出てくる人物たちは、それぞれまるで違うようで、全てが自分自身なのではないかとも思えてくることがまた不思議だ。

少々退屈だけれど誰からも好かれて家畜のロバ達を愛し憎めない性格のパードリック(コリン・ファレル)、本当は小さな島でなにも残さずに人生を終えるのは嫌な音楽好きのコルム(ブレンダン・グリーソン)、能力があるのに田舎でどこにも行き場のない女性シヴォーン(ケリー・コンドン)。あいつなら何をしてもいい、と無意識に見下される風変わりな隣人ドミニク(バリー・コーガン)。

なぜか全ての人になったことがあるような気がするし、全ての人の気持ちが痛いほどわかってしまう。これは監督マーテイン・マクドナーが「スリービルボード」をはじめとする過去の作品全てに共通する点である。人間を白や黒や善悪でで分けたりラベリングすることは決してできないのだ。

アイルランドの神話やシェイクスピアのマクベスを思い出させられる魔女のような存在の老婆、自傷行為は大罪だという神父など、神の視点を持った人物達の全てのセリフも印象的である。古典作品のようでありながらも全て現代でも間違いなく起きているという事実にも気がつかされハッとさせられる。

いつの時代にも変わらない、人間たちの不条理な営み。

それでも最後の記憶に残るのは、アイルランドの幻想的で美しい島と、動物たちのピュアな瞳であることがこの作品の唯一の救いなのかもしれない。






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