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旅のおわりと、或る夜の出来事

7年前の9月、まだぎりぎり20代だった頃の私は、ロンドンをたった1人で旅をしていた。

何かどうしようもなく行き詰まった時、必ず一人でどこかの国へ旅をするのが好きだった。

私が選ぶ街は、きまって都会ばかりだ。

たった1人で全く違う言語を使う見知らぬ土地にいる私に、都市は寛容だ。

ただひたすら街を歩き、どこかのカフェでコーヒーをのみながらそこに住む人を観察するだけの時間が、私は何よりも好きだ。

私のことを、誰も気に留めないところもまた、気に入っていた。


数週間、ロンドンで当てもない旅をして帰国した私は、日本で相変わらずうだつの上がらない日々を送っていた。


私は近くの百貨店でアルバイトをしながら、週に3回英会話教室に通っていた。

当時は、都会での暮らしと充実した仕事を手放した代わりに、何か新しいことを、それもこれまでやれなかったようなことを、やらなければいけない、と思っていたのだ。

ロンドンへの旅は、まさにそういうもののひとつだった。



30歳手前の私が、今更外国に1人で行ったからといって、何か人生観が変わったり、新たな進むべき道標ができたりなどという都合のいいことは起こらなかったが、旅というものが心の支えになるということを実感してはいた。

同じ店の同僚の何気ない言葉に棘を感じた時や、気になる男性からの連絡が突然来なくなった時、落ち込みそうになる手前で考え直せるようになっていた。

こんなことは、私の周辺の半径数メートルで起きている小さな事で、飛行機に乗って全然別の土地に行ってしまえば、すぐに忘れ去られるような、本当に些細なことだ、という風に。



ロンドンから帰国して数日後のある日、百貨店の同じフロアの雑貨店で働く、当時はそこそこ仲の良かったハルカと飲みに出かけた。

ハルカは、私と同じ二十代後半の女で、都内の大学を卒業した後、遠縁の親戚がこの土地に住んでいるとかいう理由で移り住んだという。

黒髪をショートカットに切りそろえていて細身の身体にいつもぴたりと合うスキニーのデニムを履いていた。

日中の彼女はとても聡明だったが、酒はあまり飲まない方が良いタイプでもあった。


私たちは、当時周辺で人気のあった、イングリッシュパブを模したような店へ行った。


ハルカは私とは違い、この周辺の店に詳しく、人懐こい性格故にその界隈の人たちの間でなかなか顔が広かった。


私は形式的にギネスビールを頼み、油っぽくてあまり美味しくないフィッシュアンドチップスを食べた。
油を流し込むようにしてビールを飲んでいると、気持ちよく酔いが回ってきていた。

開け放たれたドアから秋らしい冷たい風が心地よく店内に流れ込んできていた。

普段の週末は1人でスターバックスに行きTOEICテストの勉強をするか、本を読むかを日課にしていたが、たまには誰かと飲みに出るのも悪くないと、思った。


世の中はハロウィーンムードでなんだか浮かれていた。

若い店員たちは各自独特のコスチュームを着てテーブルの客に愛想を振りまいていた。
着なれない私服姿のサラリーマン風の集団や、綺麗に着飾った若い女性同士のグループなどで店内はとても賑わっている。

私も、もう少しまともな服できても良かったかもしれない。私はロンドンでの旅ですっかり着飾らないスタイル、というのにかぶれていたので、ブルーデニムにヴィンテージの(ぼろぼろの)白のコンバースを履き、ロンドンで買ったばかりのレザーのライダースジャケットを羽織っていた。 


気がつくと私たちは、隣の席にいたサラリーマン風の男性の4人組と同じテーブルを囲んで飲んでいた。

話を聞くと、彼らは、世界的企業のエンジニアらしい。確かによく見ると身なりも良く、話し方にも品があるような感じがした。

そのうちの1人が、「俺、昨日イギリスから帰ってきたばかりなんだ」と言っていた。

その男は、短いスポーツ刈りで、この中で1番よく話す男だった。私は彼のどこにも終着点のなさそうな話し方が好きではなかった。

自分はロックが好きで、あるバンドのライブのために0泊2日という弾丸スケジュールでイギリスのマンチェスターまで行ってきたのだ、と彼は言った。

見た目は地味でパッとしないが、コミュニケーション力は高いタイプなのだろう。

周囲によると(なぜか)1番モテてきたタイプらしい。

「妻と子ができてずいぶん落ち着いちゃったけど昔はね…」と友人の誰かが付け加えていた。


とはいえ、イギリスパブ風のバーで、自分と同じイギリス帰りの人がいるのは奇遇である。

「私もつい数日前までロンドンにいたんです。」

思い切って話を遮ってみた。

だが、彼は全く気に留めない様子で話を続けた。

「君のは普通の旅行でしょ?で、俺は、ライブに“きゅうきょ”いけることになったから、航空券を前日にとって、1人で弾丸で行ったんだよ。そのライブがさめちゃくちゃでさ。まあ、きゅうきょ、だからね。女の子には想像もできないだろうけど。」


私は、彼の長すぎる話のせいでグラスの中で完全にぬるくなったビールを一気に胃の中に流し込み、代わりに、適当なウィスキーを水割りで頼んだ。

隣にいる男が、マルボロのタバコを取り出したので、もう何年も吸ってなかったが、私は衝動的に一本もらい、テーブルの上に無造作に置かれたライターでそれに火をつけた。

苦い煙が口の中に広がる。二十歳ぐらいの頃、映画の真似事で吸ったタバコはこんな味だっただろうか。

酔いのせいかタバコのせいかクラクラと軽い眩暈がしたが、その時の私には、これぐらいがちょうど良かった。

私にそのタバコをくれた男はたしか内藤という男だった。

東京の端の方の出身なんだ、と言った。彼はパーマをかけた髪を肩ぐらいまで伸ばし、うっすらと髭を蓄えていた。彼も、私と同じコンバースのオールスターを履いていた。色は黒だったが。

少しホリの深すぎる顔は、私のタイプでなかったが、タバコをもつ指が細長くて綺麗だった。

「ロンドンに行っていたって、もしかして住んでいたとか?僕はパリにしか行ったことがないけど、羨ましいよ。」

「いえ、3週間と少し、ロンドンに1人で滞在していたんです。何もかも嫌になって、急に行きたくなってしまって1人で行ったんです。すごく良かったですよ。美術館に行ったりあてもなく街を歩いていただけですが。」


「君は、どうしてロンドンだったの?君にはあの街がすごく似合うと思うけど。美術が好きなの?そこはそんな理由なんていらない街なんだろうけれどな」

「理由なんて分かりませんけど、とにかく行きたくなったんですよ。」


気がつくと、私は彼とロンドンでの旅の話から、互いの趣味の話になっていった。共通の趣味もありそうだったが、彼から漂うサブカル感が、その時の私にはもう必要がないと思っていたので、全く会話は面白くなかった。


彼は美術や現代アートが好きらしく、テートモダンの建築についての蘊蓄をペラペラと語っていた。

そこは、私が数週間前に、何日も足繁く通って過ごした好きな場所だった。

私は、テートモダンに寄った帰りに、テムズ川沿いの小さな映画館で、ジム・ジャームッシュの映画を観たことを1人で思い出していた。

内容は全く覚えていないが、外国の映画館というものに、憧れがあったのだ。


「LINEの交換しようよ」と、内藤は言ったが、私は適当な嘘をついて提案を流した。

代わりに、無造作にテーブル置かれた内藤のマルボロの箱から、2本目のタバコを取り出していた。


向かいの席では、すっかり酒に酔ったハルカが、私たちの方を見て悪態をつきながら、スポーツ刈りの男の肩にもたれかかっていた。

スポーツ刈りの男は憎らしい顔でスマホの電源を切ってハルカを介抱していた。

スポーツ刈りの髪の先端に光る汗の滴が見えたので、私はすぐに彼から目を逸らして外の通りを行き交う人々の方を眺めた。


長かった私の旅は、間違いなくこの時、静かに終わりを迎えたような気がした。


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