28歳冬、 渋谷の夜
「あれ?そっちの方が可愛い。さっきまでついてた赤い口紅は男ウケしないから絶対にやめた方がいいよ。思ってたよりも俺の好みの顔かも。」
向かいの席に座っているだいたい30歳ぐらいの、おそらく童顔を隠すためにヒゲを蓄えている妙に白い顔をした男が、猫なで声の10代と思しき女の肩を抱きながら、私の顔をじっと見て言った。
私は男の発言を無視して真顔のまま心の中で舌打ちをし、レモンサワーを一気に喉に流し込んだ。またどうして私はこんなにくだらない会にきてしまったのだろうか。食事によって取れた口紅に気がつく男のあざとさとその隣にピッタリとくっついている女の構図は近年稀に見る奇妙さだった。
28歳の冬だった。
異業種交流会という名の大人数合コンのようなその飲み会は、渋谷のセンター街の奥の方にある名前もない雑居ビルにある居酒屋で行われていた。
隣のテーブルではその会の主催者の一人であり、私と、一緒に来た私の友人の加藤の共通の友人でもある小堀が、ビールのジョッキを片手に年齢も職業もよく分からない中年の男たちと悪ふざけをして笑っていた。
小堀は大学時代に同じ居酒屋で働いた同期で、今は某旅行代理店に勤めている。学生時代よりも20キロは増えたであろう彼の見るに耐え難い巨体は、おそらく毎週のように開催しているこうした飲み会で蓄えたものだろう。昔はスポーツマンで、筋肉質で、端正な雰囲気の好青年だったはずなのだが。
学生時代、バイトの後の談笑が盛り上がり終電を逃した時、新宿から自宅のある池袋まで小堀のヤマハの中型バイクの後ろに乗せてもらったことがあった。
彼は私の家から目と鼻の先ほどの位置にある東長崎という西武池袋線の沿線の駅の近くに家があった。通り道だから別にいいよ、と彼は言った。小堀が首に巻いていたポールスミスのマルチストライプ柄のマフラーからは、私の嫌いなタイプの安っぽい香水の匂いがしていた。
家に着くほんの手前でバイクを止めてもらいお礼を言って帰ろうとした時、「あ、今日、家の鍵がないんだった。どうしよう。」と、彼は見えすいた嘘を言った。
「ありえないでしょ(笑)カバンの中、ちゃんと探しなよ。じゃあね。」
「いやマジでないんだわ…どうしよう?寒いし…君の家はもうすぐそこだよね?」
「だから、あなた実家なんだから、お母さんにでも電話して鍵を開けて貰えばいいんじゃないの?じゃあね!ありがと。おやすみ!」
そういう会話のキャッチボールをした後で、諦めて小堀は家に帰った。もう少し色気のある誘い方があったんじゃないのか?と思うと笑えてきたので、今すぐバイト仲間の誰かにこの面白さを共有したかったが、やめた。
20代前半の男女の深夜には、よくありそうな健全な会話をしたにすぎなかった。もちろんその後の小堀とのただの友人関係も変わることはなかった。何年も後で、小堀にあれはどうだったのかと聞くと、鍵がないなんて嘘だったに決まってるよ、と笑って白状された。
今思うとなかなかいい時代だった。
私たちは社会人になり6年目に突入していた。
30歳目前という時期は今思えば大学生に少し毛が生えた程度の若くて将来の可能性に満ちた時期であったに違いなかった。だが、先の見えない東京での一人暮らしや、好きでもない広告代理店での激務に加えて、恋人のいない色のない生活に限界を感じていた。あと2年のうちに何か人生の方向を定めなければいけない、というよくわからない焦りを感じていた。それぐらい、当時はなぜか30歳という年齢を重く感じていたのだ。
だから、よくあの頃は今振り返ると無駄だと思える類のものでも、仕事か恋愛のどちらかに進展がありそうな場所にはよく顔を出していたのだ。
だがいずれにしても、小堀の誘いだけは、やはり断った方が良かったのかもしれない。
私の隣には新宿で居酒屋を経営しているという40がらみの男が座っていた。目の前の色白の男とは違い自分の話はほとんどせずに周囲の話をよく聞いている人だった。なかなか印象のいいタイプの男だった。彼は私だけに聞こえる声で耳打ちした。
「ねぇ、君28歳って言ってたっけ?」
「そうですけど。」
「うん、1番いい年齢だよ。なんていうかほら、あそこに奥にいる女の子たち2人は34歳なんだって。ほら男を漁ってる感じするでしょ?やっぱり君ぐらいの年齢が1番魅力的だと思う。」
この人がさっきから寡黙でいたのは単に彼には提供できる話が何一つなかっただけだったのだと私は理解するに至った。私だって数年経てば同い年だ。彼の頭の中は空っぽだった。
別の席にいたマッチョな男はつい数日前に子供が生まれてばかりだという話をしていた。ならば早く家に帰った方がいいのでは?という言葉を私は妙に酸っぱいだけの梅酒と一緒に飲み込んだ。
「俺?45歳。実家暮らし。パラサイトシングル」
何百回も言っていそうなフレーズで女子たちを笑わせていた、某IT企業勤務の男。
「ウケる」という相槌しかしない黒髪のロングヘアに清楚なワンピースを着ていた女の袖から不意に見えた腕の刺青。
何もかもが意味のない不思議な夜だった。
参加している女も男も皆楽しいのか楽しくないのか分からない表情をしていた。
ただこの数時間だけ酒を飲んでくだらない話をしていたかった人から、何かをどうしても得たいと考えていることが顔に出てしまっているギラついた男女などでその場は溢れていた。
「とりあえずラーメン食べて帰らない?」
帰り道、一緒に来た加藤とこの1日をせめて美味しい何かで満たして終わりたい気分になり適当な店に入って、ビールとラーメンを一杯ずつ、餃子を2人で一皿注文した。
「ねぇ、やっぱりさ、小堀の話にはついていっちゃダメだね。でも、なんかもう恋愛とか仕事とか、どうでもよくなっちゃった。こういう場所に行ってもいつもこうじゃん。どいつもこいつもさ。」
「だけど、昼間はまともそうな人も、皆んな蓋を開けてみたら、変な人ばっかりだよね。それもありなのかもね。」
「まあ、たしかにそうかもね」
私たちは意味のあるような、ないような不毛な会話をしてお互いの家に帰った。
関係性や共通点も利害関係もない人と出会い別れる夜が、当時はよく足を運んでいた渋谷の街にはあった。男たちの偏見剥き出しの会話や女たちの小賢しい振る舞いや欲望はどれだけ時代が変わったところで消えて無くなりはしないだろう。
今はあの頃とは違う場所で、本を読んだり映画を観たりして意義のある夜ばかりを過ごしている。以前のようにくだならない時間を過ごさなくて済むようになりホッとしてもいる。
だが今は、あんな風に時間とお金の無駄をしていたように思える20代の頃の楽しくもない虚無な夜も、そんなに悪くなかったように思えるのだ。
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