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動き出した日常、休むことの意義

人生で何度目かの長い休暇を終えた。

先日記事にも書いたが、私はつい先月まで3ヶ月ほど人生の休暇をしていた。

仕事をやめて、次にやることも考えずに過ごしたのが3ヶ月間だった、というだけの話である。


今回の3ヶ月という期間、私はたくさんの映画やドラマを観たり本を読んだりして過ごしていた。時間ができれば(時間など無限にあったはずなのだが)時々こうやってnoteに思うことをエッセイに書いたりした。
時々、ジムにも行った。
毎日カフェでアイスコーヒーをブラックで飲んだ。

楽しかったし、とても自由だった。
何よりも休んでるなあ、という感覚があった。

そしてなにより、社会から少しだけ断絶されると自分の「好きと嫌い」がはっきりとわかった。

これまで建前で言っていた言葉が口からは出てこなくなったし、「あの人、根はいい人なんだけど」という枕詞を入れずに「あの人は正直苦手だし私には合わない」と思うようになった。

好きなものは、誰に何を言われてもとことん執着した。最近であれば、ドラマ「マスターオブゼロ シーズン3」はしつこいぐらい良かったと夫に話している。(もっと、話題になってほしい。)

だが、不思議なことに、私はどれだけ時間が経っても「心が満たされる」ような感覚にはならなかった。
その理由は、やはり「仕事をしていないから」ではなかった。
せっかくこれまでよりも自由な時間ができているのにろくに「移動ができない」というこの時勢特有の事情だったのだ。

昔の私だったら、こんな時、一目散に外国に飛び立っていたに違いない。
今まで、仕事で嫌なことがあったって、少し遠くの地域に足を運ぶと気分がすっと晴れることがほとんどだったのだ。ロンドンが、ニューヨークが、香港が、台北が、これまでの私を、きっと癒してきたのだ。

地方に住んでいる私たちは、夫婦で月に1、2度はかつて暮らしていた東京で羽を伸ばすというのが、日課だった。つい1年ほど前までのことだ。

表参道から青山、外苑周辺を歩き回って気になるブティックで買い物をしたり、神保町の喫茶店でクリームソーダを飲んだり、清澄白河のお気に入りの珈琲屋に立ち寄ってから美術館や建築物を見てめぐるなどといったことをして、生きてきた。

ただ月に一度か二度だけ、東京の街を2人で歩きまわるだけでいい。

私たちが別々に生きていた期間、でも確かに同じ場所に住んでいたのだと感じる街が、私たち夫婦にとっての東京だった。


地方に住んでいるからといって、周囲のように流行のキャンプやアウトドアなどをやろうとは不思議と思わなかった。
なぜならそれは、あまりにも日常の延長であり、(私がこの休み期間にはっきりしたことの一つでもあるが、)私は誰がなんと言おうと自然よりも人工物、とりわけ人が作った創造物に心が踊るタイプの人間だからである。

私は、この5月から、(生活水準を全く下げずに3ヶ月も過ごしてしまったせいで、すっかり自分の懐事情が寂しくなってきたことをきっかけに)また少しだけ働きはじめるようになった。

自分は創造物が好きで人工物が好きで、おまけに近い将来やはり外国を旅がしたいのだ。

自分の趣味や「本当に好きなことや挑戦したいことに執着するために」、ちょっとだけ働こうと思った。

時々会う両親には「あんまり働いてないなら、弁当作ってあげてるんだろ」だとか「お前の方が楽なんだからちゃんと朝ごはんも用意してあげろよ」などと(完全に父親の声である)言われることがあったが、働いていないからといって「楽」なわけではないと弁明はしたい。
働いていないけれど、私はどうしても夜中に映画を観たりするのだから、朝は寝かせてほしいのだ。


いずれにしたって、「いまの」自分がどれを選ぶのかというだけだ。

私はがむしゃらに働くという行為ばかりを繰り返してきたこれまでのスタイルに、少し違和感を感じていた。
それは一度、手放してみることにした。

もしかしたらまた、いずれがむしゃらに働いているときがあるかもしれない。
でも、今は違う気がしている。

これから先なにがあっても、「好きと嫌い」この感覚だけには言い訳をしない生き方ができるバランスを保っていたいと今とても感じている。


会社のルール、社会の常識、他人の意見にたまには耳を貸す必要はあっても、自分の内なる心の声にはどんな時でも正直でいたい。

そのことに気がついただけでも、休んだ価値は充分にあっただろうと、今は思っている。

長いお休みはあっという間に終わり、私の新しい日常が少しだけ、戻ってきた。

2021.6.9の日記


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