何をしているのか自分でわからない信仰者
日本のキリスト教界の保守系教派はいまだに同性愛者差別を続けており、「LGBTQ」という大きな括りに対しても「反対」の姿勢を貫いている。自分の狭い観測範囲においてもこれは既に数十年継続している。呆れるし憤りを覚える。
しかし世界的に見ると2018年頃から、性的少数者をめぐる言説は大きく様変わりしている(特にここ数年は加速が著しい)。世界各国で次々と同性婚が法制化されたことで、同性愛者が政治的攻撃対象として成立しにくくなったのだ。もちろん日常生活レベルで同性愛者に対する差別がなくなったわけでなく、まだまだ偏見や攻撃はある。けれど少なくとも、政治的「仮想敵」として利用されにくくなったのは事実だ。一般メディアが同性愛を肯定的に取り上げるようになり、「同性愛者をイジるのはダサい」という価値観が広がりつつあるのもその証左だろう。
そして同性愛者に代わる攻撃対象として、昨今はトランスジェンダーが槍玉に挙げられている。先日閉幕したパリ五輪において、ボクシング女子のイマネ・ケリフ選手に「トランス女性疑惑」が掛けられたのはその最新のケースだろう。「女性(と女性スペース)を守る」という口実で、主に公衆トイレや公衆浴場を舞台に巻き起こってきたトランスヘイトが、今回女子スポーツに改めて飛び火した形だ(女子スポーツも以前から同じ文脈で槍玉に挙げられることはあったが、ここまで大々的ではなかったと思う)。
この流れから明らかな通り、政治的攻撃対象は常に少数者や、立場の弱い人々に向かっている。20世紀は同性愛者差別が吹き荒れ、様々なデマが蔓延し、多くの同性愛者が死の危険に晒されていた。今は同じことがトランスジェンダーの人々に起こっている。これはあくまで恣意的な攻撃なのだ。
この世界的な流れを見ると、日本のキリスト教保守派は既に梯子を外されているのではないかと思う。
彼らは安易に「LGBTQに反対」と言うが、そもそも「LGBTQ」という言葉をどう捉え、具体的に何にどう「反対」しているのか分からない。例えば「同性愛を断罪」することと、「LGBTQに反対」することは同義ではない。セクシャリティの多様さ、そのグラデーションの広さを理解するのは簡単なことではない。専門書を何冊も読まないとその輪郭すら見えてこない。他人のセクシャリティに安易に口を出す彼らは、それを一体どれだけ理解しているのか。保守系指導者の言説を鵜呑みにしているだけではないのか。
同性愛者差別に絞って言うと、聖書にその根拠があるのではない。多くの場合、個人的嫌悪感を聖書を使って正当化しているに過ぎない。端的に言って「弱い者イジメ」だ。キリスト者として相応しい態度ではもちろんない。
だから「LGBTQに反対」と主張する保守派クリスチャンの行為は総じて「的外れ」だ。何がしたいのか分からない。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」とキリストが十字架上で嘆いたのを思い出す(ルカによる福音書23章)。
「時代を読む」ことにプライドを持つクリスチャンは少なくない。であるなら同性愛者差別はもちろん、トランスヘイトに対してもノーを突き付けるのが時代を先取りした態度のはずだ。そしてそれは保守系の信仰観を持ったままでも可能なはずだ。そういう良識を持ったクリスチャンが増えることを願ってやまない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?