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泣きながら教会を出た

 泣きながら教会を出た。玄関で「また来て下さい」と言われた。「もう来ません」とはっきり返してしまった。相手は驚いたような顔をしていたと思う。直視できなかったから定かでない。そのまま教会を出て駅に向かって歩きながら、涙がボロボロこぼれた。

 辛い時は映画のワンシーンを思い出すようにしている。こんな気持ちで泣きながら歩くキャラはいなかったか。真っ先に思い出したのは『ワンダーウーマン1984』のダイアナだった。スティーブと別れなければならないダイアナは泣きじゃくりながら彼のもとを去って行く。彼女の気持ち、今ならちょっと分かるかもしれない。

 私は何を期待していたのだろう。昔の知人が、すっかり変わった信仰観とクィアな洞察で礼拝説教を語るものと、なぜ根拠もなく考えていたのだろう。知人の現在を何も知らないのに。昔の親しかった頃の記憶しか、知人と私を繋ぐものはないのに。

 プレイリストはヒルソングの『Take all of me』を流している。私の全部を受け取ってください! と神に向かって叫ぶ歌だ。しかし正直「全部」捧げるなんて無理じゃね? と心のどこかが突っ込んでいる。そういえばヒルソングは何年か前、同性愛指向の賛美奉仕者をクビにして物議を醸した。そんな教会のオリジナル賛美を聞くなんてどうかしてる。と思う一方で、こんなふうに神に向かって叫ばせてくれ! と願っている自分もいる。はち切れそうだ。どうしたらいいのか全然わからない。

 駅に着いた。一緒に行った友人を待つため、タリーズコーヒーに入る。アイスのカフェオレを頼んだが、外を見ると雨が降り始めている。ホットにすれば良かった。ちっともホッとしないけどね、と一人でボケる。そして一人で少し笑ってみる。馬鹿じゃないの。

 隣の席では両腕にびっしりタトゥーを入れた女の子が、ノートに一生懸命書いている。タトゥーの一つは蛇だった。蛇はキリスト教では悪魔の象徴だ。でも蛇は蛇だろ、蛇に悪魔役を押し付けるな、とも思う。反対の隣では若い男女が幼児をあやしている。その向こうでは着飾った男女がケーキを食べている。彼らのうちの誰かになれたなら、全然別の人生を歩めるのだろうか。全然別の人間になれるのだろうか。そうしたらこんな気持ちにならなくて済むのだろうか。

 ある批評によると、ダイアナがスティーブに別れを告げたのは古典的な貞操観念からの解放を意味するらしい。昔の男に義理立てするのでなく、新しい恋に向かっていいんだよ、という意味での解放だ。では私はどこへ向かえばいいのだろうか。そのとき真っ先に思いついたのは「さよなら」という言葉だった。古い知人へのさよなら。教会の思い出へのさよなら。さよなら、さよなら、さよなら、は今は亡き淀川長治さんの台詞だったっけ。

 そんなふうに思った、駅前のタリーズでカフェオレを飲んでいる私はもう泣いていなかった。

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