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【映画評】すぐ隣の「違国」 『違国日記』

 試写会で『違国日記』を見た。

 同名の人気漫画の実写版。共生することになった伯母(新垣結衣)と姪(早瀬憩)の、すれ違いと歩み寄りの日々を丁寧に描く。

 当然ながら30代の新垣結衣でも10代少女に戸惑ってばかりで、互いに明らかに「違国」の存在。使う言葉が微妙に違うし、互いに予想外の反応をする。少し前に話題になった50代男性と20代女性の恋愛など、これを見るとやはり現実的でないし一般的でもないと再認識する。

 ひとつ気になったのは新垣結衣が裕福な人気作家で、引き取られた早瀬憩も「いい子」で、労を惜しまずサポートしてくれる親友(夏帆)と元恋人(瀬戸康史)と弁護士(染谷将太)もいて、とんでもなく恵まれた環境だという点。お金に悩むことがなく、早瀬憩の悩みはバンドのボーカルを引き受けるかどうかとかで(もちろんそれ以外にも葛藤は様々あるけれど)、アメリカの富裕層の日常を描くファミリードラマのような、住む世界が違う感は否めない。

 特に同日公開の邦画『あんのこと』と比べると、否応なく社会の格差を意識させられる。それもとてつもなく大きな格差を(『あんのこと』の映画評はキリスト新聞に書いている)。

 一方で、世代も性格も違うふたりの女性がおのずと互いをケアし、緩やかに絆を築いていく、シスターフッド映画として楽しい。親子でもないし、親戚でもないし、友人でもないし、ただの後見人と被後見人の関係でもない、そういった言葉や規範を越えたふたりの関係はクィアだ。

 本作にはそのような、規範から外れた関係がいくつか登場する。別れた恋人と結ぶ親友のような関係、疑似家族のような幼馴染、同性どうしのカップルなど。「このふたりはこういう関係」とはっきり言えない、絶えず輪郭を変える、それでいて安定的な関係群が、本作においては緩やかに互いに助け合うもの、見守り合うものとして機能している。見ていて尊い。

 逆に規範的な関係は望ましくない結果を生むものとして描かれる。例えば新垣結衣と姉の関係、早瀬憩と母親の関係、(映画では描かれないが)早瀬憩の父親の非存在感などだ(そういえば本作には「父親」が登場しない)。

 もちろん、必ずしも規範的な関係が悪い結果を生み、規範から外れた関係が人を救うわけではない。規範から外れた関係そのものが新たな規範を生むこともある。その不安定さ、流動性はどんな関係においても存在するだろう。その意味で、規範内であれ規範外であれ、他者は総じて「違国」なのかもしれない。

 自分と違う存在と接し、関係を調整し、その違いを時に楽しみ、時に耐える。そうやって流動していく関係に対して、不安でなく信頼を寄せる。それは主役のふたりにだけ課せられた課題ではない。私たちも日々直面し得る課題だ。

 『違国日記』は6月7日ロードショー。

 ※同日公開の『あんのこと』の映画評(キリスト新聞)↓


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