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2011.03.11 私にとって「あの日」はずっと終わらない

2011年3月11日。
もう10年なんて信じられないくらい、あの日のことは忘れられない。日常が非日常になって、みんなそうだったと思うけど、なんだか感覚がおかしくなってしまったあの日。

あの日のことを改めて振り返ってみたいと思う。※時系列のためかなりの長文です。

2011年3月11日、秋田にて

高校を卒業して、ちょうど大学の合格発表を待っている春休みの最中。その日はまだ秋田に住んでいて、3月だというのに吹雪の日だった。

私は友人と一緒に美容院に行き、パーマを初めてかけていた。パーマのロッドを巻いてもらいはじたところで「ん?」と違和感を感じた私は、美容師さんに「なんか揺れてませんか……?」と聞いた。

美容師さんが「そんなことないっすよ」と言いかけたとき、急にドンっという音と共に、かなりの揺れ。地元の火山が噴火したのか?車がお店に衝突した?と思うくらいの音だったと思う。

でも長い揺れで地震とわかり、「これは私、死ぬのかもしれないな」と変に頭が冴えていた。揺れが落ち着き、倒壊は免れたけど、津波が来るんじゃなかろうかという考えが頭をよぎる。

(というのも、昔から1983年日本海中部沖地震のときの津波の話を聞いていたから。それまでは日本海側では津波が起きないと言われていたらしく、被害が大きかったらしい。)

停電になってしまったために、情報がほぼ入らなかなってしまった。この段階では携帯のニュースで調べてみても、震度も震源地もいまいちはっきりせず。

津波は免れたみたいだが、電車は動かない。外は吹雪と渋滞。うちは大丈夫か?みんなどうしているんだ?というかそもそもなにが起きたのか、全貌がわからない。

あまりの衝撃と冴えに、普段ほとんどかかない手汗をいつのまにかいていた。怖い。これはしっかりしなくては、と自分に言い聞かせる。

パーマのロッドを巻いてもらっている最中の頭でぐるぐる考えていたけど、電気もガスも止まりどうにもならないので、真冬の寒い中、水でパーマ液を流してもらい、タオルドライしてもらう。そのあと、なんと、美容師さんのご好意で車で実家まで送っていただいた。

17:00、自宅近くのコンビニにて

たまたま出かけていた妹と合流して、自宅から1番近いコンビニに駆け込んでみると、コンビニの棚はすでに空っぽ。食べられるものはみんななくなっていた。

仕方なくそこから違うコンビニにとぼとぼ歩いて行って、空っぽの中からかろうじて食べられそうな○チキバンズを購入。レジが使えないので、みんな電卓計算だったし、冷凍食品や冷蔵物は全部ダメになってた。(自家発電してる家やお店もあったみたい)

パッと見ても、物資がとにかくないことがわかった。食べ物はおろか、お金、ガソリン、電気、ガス、自分たちの生活がいかにいろんなものに支えられてるか、こんなところで知ることになるとは。

18:30、自宅にて

自宅に家族が揃ったのは18:30頃だった。

自宅はほぼ被害がなかった。プロパンガスだったのでコンロが使え、断水もなかった。使えなかったのは電気のみ。引っ越したばかりで物が少なかったのも幸いした。

ただ、暖房がなくて、やむなくテーブルの上に毛布を敷いて簡易こたつを製作。みんなで防寒着を着て過ごした。小学生だった弟が、技術の授業で作った手巻きラジオを持ってきて、なぜか「ハッピーバースデー」のオルゴールを鳴らし始めて爆笑。

不謹慎かもしれないが、生きるか死ぬか、明日どころかその時の状況自体もわからない状態で、逆にもう笑ってないとやってられなかった。この時はまだ、どこまでの被害だったのか、依然としてわからなかった。

もちろんお風呂は入れないので、汗拭きシートを使い、いつ逃げてもいいように、その日は防寒着と私服を着て寝た。

翌日以降も、この生活は続いた。さすがに3日目になってお風呂に入れないのが辛すぎて、お湯を沸かして濡れタオルで身体を拭いた。

食べ物は、一応ストックがあったのでなんとかなった。だが、困ったのはガソリンだ。携帯の充電ができないから車で充電する。雪が降っていて寒いし、どこに行くにしても車社会の秋田ではガソリンは死活問題で、みんな困っていた。友人から穴場のガソリンスタンド情報を回してもらって、数時間並んでようやく調達できるというレベルだった。

2021年3月14日(たぶん)、電気がつく

停電は4日ほど続いた記憶がある。その間、情報は携帯のニュースとラジオ、地元の人づてでの情報のみ。その頃にはなにが起こったかだいぶ情報が入ってきて、震源のこと、いかに大きな地震だったかということがわかってきた。

夕方、近くに住んでる叔母から、電気がついたとの報告があった。うちでも、19時頃、電気がようやくついた(市内ではかなり遅かったらしい)。

思わず、わー!!!と大喝采。
うちの場合は、電気がつけばほぼライフラインが復活したことになる。

早速テレビをつけてみると、今まで遮断されていた情報が一気に入ってきて、え、なにこれ。あまりの被害に圧倒されてしまった。津波?原発?放射線?

ようやく現実を目の当たりにする

他の東北5県では死亡者も出ていたが、秋田は奥羽山脈を挟んでいることもあり、死亡者ゼロ。放射線や地震の被害も比較的少なかったようだった。

当時は津波の映像もガッツリ流していて、余震も続いていたためか、メンタルが体調に出やすい私は、ご飯が食べられなくなってしまう。船酔いみたいな感じで食べ物を口に入れると吐き気がするようになった。

もっと辛い人がたくさんいただろうと思うと、こんなヤワな自分がすごく申し訳なかった。

毎日、酔い止めを飲んで数日で復活できたが、依然として余震は不意にやってきて、ビクビクした日々を過ごす。

大学の入学式がなくなった

震災の数日後、大学の合格発表を見に行った。大学にはなんとか合格できていたのだが、なんと、大学の入学式がなくなった……

授業自体延期しているところが多い中、大学自体は予定通り4月から始まったので、なんだか急な感じ。変な感じ。

入学してみると、名簿に名前があるがいない人もポツポツといた。どうやら被災した人や心配だから地元に残る選択をした人がいたらしい。何事もなかったように新生活を始めた自分のような人がいる一方で、今更ながらそうじゃない人もいるんだということを身近に感じた出来事だった。

後期受験の子達は震災の翌日が受験日だった。何人かは、県外から秋田で一泊していて、被災したとのこと。ホテルに数日泊まったり、地元から車で迎えに来てもらったりしたそうだ。

県内の断水した地域の子は水がなくて大変だった話をしてくれた。

仙台で就職予定だった先輩も、震災を機に就職をあきらめて秋田に戻ってきたと言っていた。

こうやってみんなの話を聞くたびに、だんだん日常に戻ってきているけど、でもやっぱりあの日以前とは変わってしまったんだな、と実感した。

それから、計画停電の話が出たり、電車の蛍光灯が半分取り外されたり、生活に変化がなかったわけではない。
ただ、余震はだんだん減っていって、日常が戻ってきている感覚が出てきていた。

2011年夏、山形にて

夏休みに入り、私は、友人がいる山形南部に向けて電車を乗り継いで向かっていた。

お昼過ぎ、電車に乗っていると突然かなりの揺れが。久々に大きな余震が来た。あんまり揺れが長いので脱線するかと思った。1人で知らない土地で、田んぼのど真ん中みたいなだだっ広いところで電車が止まってしまって、とにかく怖かった。脱線は免れたが、電車が止まってしまい、余目という小さな駅で2時間立ち往生する羽目に。

元々、夕方に友人宅に到着するはずだったのが、遅延に遅延を重ね、着いたのは夜9時過ぎ。

春になって、新生活が来ても、夏になっても、「あの日はまだ終わってないんだな」って改めて思った1日だった。

10年経っても終わっていない「あの日」

それから、数年後。

社会人になって、保育士になった。その時に驚いたことがあった。

当たり前なのだけど、みんな震災後に生まれた子達なので、あの震災を知らないのだ。大きい地震があったんだよね、ってことはみんな聞かされていたけれど、「あの日」を体感していない子達はこの瞬間も生まれているんだ……

当然のことだけど、新しい命が生まれて、東北は高齢化が進んでいる地域が多いから、「あの日」を体感した人はどんどん、多分予想以上のスピードで減っていくんだということに、ふと気がついた。

私はそこまで被害を受けてないけれど、それでも「あの日」のことは、生きている限り伝えていかなきゃいけないと思った。私たちの世代が伝えていかないと、どんどん風化していく一方だ。

復興してきているとはいえ、まだ解決していないこともあるし、なにより、これから生きていく上で、「あの日」以上のことが起こる可能性があるんだから。

今も、秋田出身だと伝えると、時々話題に上る「あの日」のこと。たいしたことは伝えられないけど、10年後も20年後も私は伝え続けているだろうか。

きっと語り継いでいく限り、私にとっては「あの日」は終わらないし、終わらせてはいけないと思っている。








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