前置:私の高畑勲論『居場所を作る物語』と『居場所がない者の物語』

昔話によって、「心の比較解剖学」がもっともよく研究される
 C.Gユング

●かぐや姫は幼過ぎ?

 先ず、私の懐疑心の出発点を提示するべきだろう。
 『かぐや姫の物語』は公開当初、一部の評論家からバッシングされた点がある(海外だったと思う)。
 それは『ヒロインが幼すぎる。不適当ではないか』というものだった。私も実際に見て『確かにその通りだ。その指摘は見当違いではない』と思った。
 この問題指摘を『いちゃもんだ』『時代考証的に正しい(私の反論:寓話性の高い物語故に、正しさなど二の次)』と切り捨てる人には、私の見方は納得できないかもしれない。

 私は『かぐや姫に相応しくないほどに、ヒロインが幼く設定されている』という前提1から、『幼すぎるヒロインには、明確な意図がある』という前提2を立てて、この作品を考えてみた。
 なお、原典の解釈の問題なのでネタバレというものはないと思うが、『かぐや姫の物語』の分析は次項に展開し、次々項にて姫の未来を考え、監督の込めたメッセージを憶測する。
 河合隼雄先生の著書『昔話の深層』は符合する事がとても多い(高畑勲監督が心理療法への造詣が深いのではないかと思う)、中の言葉を各所に引用させて戴いた。参考文献の筆頭として一読を薦める。


 それでは、高畑勲監督の作品について私の見方を提示しておこう。
 なお、ウェブサイト『高畑勲・宮崎駿作品研究所』にて映像研究家の叶精二氏の高畑勲論と、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』にてアニメ評論家の藤津亮太氏が語ったことは大変参考にさせて戴いた。私はそれに合わせて、ただ自分の感じた事・考えた事をまとめて、新しい解釈を提供する。

高畑勲は「弁証法の人」である。一つの成果を得ると、必ずそれを否定し、より高次の段階へと歩を進めて来た。
 叶精二
「青春の悩み」みたいなものをはじめてアニメーションに導入。
居場所を作るっていうことがアイデンティティーの確立とつながっている。
 藤津亮太

 叶精二氏の弁証法を焦点にした、アニメーションの技術であったり、物語内の構図などを微に入り細にわたって膨大に分析していることに反論する余地はない。

 ただ、私が直感的に感じたのは、高畑勲監督の作品個々のテーマ設定(社会へのメッセージ)は、弁証法と言うよりも科学実験のような繰り返し検証、または哲学的思索法のようであるとも思う。
 即ち、前に進むと大きく条件が変わってしまうので、次々と新しい価値を作る・新たなステージに進むのではなく、同一不変のテーマについて少しだけ角度を変えて偏執的に取り組むというもの。

 私が提唱するのは、
 高畑勲監督は、未来を担う者へ『居場所の大切さ』を伝えるため、『居場所を作る物語』を作った。しかし、それでは掬い取れない者にも気が付き『居場所がない者の物語』を作り、それによってこれまで見えなかった視点を補完したのではないか?
 という考え。
 個々の作品に共通して横たわるテーマ、それは『未来を担う者へ』だと思う。これを突き詰めて行く事こそ(到達点は無い)、叶精二氏が『終わりなき弁証法』と呼ぶものではないだろうか?


●『居場所がない者の物語』

 特に後期作品に色濃く見られると思う。
 筆頭は不朽の名作『火垂るの墓
 ただし、『居場所がない者の物語』を受け取る上では、戦争という重い社会背景が障害、フィルターとなってしまい、『居場所がない=甘え』としてしまうことだ。
 清太の未熟さを批判して、無意識に戦争という異常事態を日常として取り込んでしまう(この問題は片渕須直監督が『この世界の片隅に』の作中で指摘していると思う)という己の感覚の麻痺・異常さが自覚できないと、『居場所がない者の物語』は読み取れない。

(2020年、追記。
 日曜美術館「アニメーション映画の開拓者・高畑勲」にて、ゲストにいらした片渕須直監督が清太の行動の賛否両論について、『「思い入れ」で見る視聴者と「思いやり」で見る視聴者の違いだ』と分析。しっくりした。
 再放送の機会があったら、是非ご視聴ください)

 『平成狸合戦ぽんぽこ
 これもまた戦争、太平洋戦争の暗喩があちこちに盛り込まれているのが有名である。
 一見『居場所を作る物語』のように始まるが、『居場所がない者』の群像劇だ。
 問題は良くも悪くも群像劇であることに集約される、自分にとって好ましいものを探して感情移入、己の意にそぐわない者の批判に終始してしまいがちだ。(そう、「思い入れ」を持って視聴してしまう)
 全体を眺めて捉えてもらいたいが、『全体を眺める=当事者にして第三者の視点で眺める』を、『全体を眺める=輪の外、他人事として眺める』とされてしまうおそれがある。
 『居場所がない者の物語』その最大の問題点は、受け手側が当事者の自己責任論・個人責任論に矮小化させてしまいがちなことだ。

 さて、『かぐや姫の物語』はどうか?
 日本人の心の中のかぐや姫像は非常に強烈であるため、感情移入に向かいやすく、かぐや姫個人責任論には行き難いと思う。
 また、原典である竹取物語は天人流謫てんじんるたく(天界人が人間界に落とされ、人として一生を全うすることで罪を贖う)の色濃い物語だが、かぐや姫の罪ははっきり明示されない。故に、これもまた犯罪自己責任のように収束し難い。
 元々そんな構造があるので『居場所がない者の物語』としては好都合である。

 余談であるが、『ホーホケキョ となりの山田くん』は、一方の『居場所を作る物語』として見ると、突き抜けた作品だと思う。
 私が特に印象的なエピソードは(セリフはうろ覚えだが)、長男のぼるが「違う両親の下に生まれたかった」に、父たかしが「ばかだなぁ。俺と母さんがいるからお前がいるんじゃないか」だ。
 ファンタジー的な万能感を伴った居場所作りの過程を排して、視聴者を過剰に気持ち良くさせない。言わば、(マッチポンプ的)『めでたし、めでたし』を、良しとしない話だろう。

参考資料
『語られざるかぐやひめ』高橋宣勝
『昔話の深層』河合隼雄

高畑勲・宮崎駿作品研究所、『高畑勲論』 叶精二


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