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2018年8月の記事一覧
歯のメンテナンスに行ってきて。
もともと科学とは、そういうものであるのだけど。
このところ、じぶんという人間のことを、どこか機械のようにとらえる言説が増えてきた。たとえば健康診断や人間ドックを受けることを、「メンテナンス」になぞらえるひとがいる。自動車や建築物を点検・整備・補修するがごとく、おのれのボディを定期検診する。メンテナンスとは、そういう意味で使われているのだろう。
これが歯科検診であれば、メンテナンスは割としっくり
おとなの「いやいや期」。
いやいや期、突入である。
幼児の話ではなく、犬の話でもなく、最近45歳になった、ぼくの話である。なにに対する「いやいや」なのかというと、今日の note についてちょっと「いやいや」というか、書きたくないなあと思っている。毎日書いていると当然こんな日は定期的にやってくるし、それをわざわざ「ほんとは書きたくないんです」なんて書く必要はないのだけど、ちょっと「いやいや」の正体について考えることだった
いい気になる、ということについて。
だれかに毒を吐いてやろう、と思っているわけではない。
いつかしっかり書いてみたい(つまりは考えてみたい)とは思っていたものの、たぶんストレートに書くと毒づいてる中年にしか映らないだろうなあ、それはちっともうれしくないことだよなあ、と躊躇していたテーマがある。しかし昨日と今日、糸井重里さんが「今日のダーリン」のなかで、かなりていねいに、そして肯定的な面を踏まえながら、それについて書かれていた。一部
おれを見ないで、あれを見よう。
最近ようやく、行きつけの店ができた。
美容院である。会社の近くに行きつけの美容院ができ、毎回指名でお願いする美容師さんができたのである。ちなみにそのひとは、ゆたかなひげをたくわえた、30代とおぼしき男性である。
中学生のころまで坊主頭だったぼくは、ずっと自宅のバリカンで頭を刈っていた。それで高校生になってからずっと、つまりは約30年間、どこかのお店で髪を切ってきたわけだ。「あそこのお店にはけっ
逃げられないから、逃げるんだ。
いったいカツオは、なにを慌てているのだろう。
夏休みのこの時期、カツオは毎年夏休みの宿題に追われている。サザエから叱られ、ワカメにたしなめられ、タラオから頓狂なアドバイスを受け、居間に陣どる波平の目を、逃れようとする。小学生のころ、ぼくはその気持ちがまるで理解できなかった。自分のなかに「夏休みの宿題を出す」という選択肢が、まるっきりなかったのだ。カツオの学校はたいへんなのだろうなあ、と思うくらい
自分として、自分たちとして、会社として。
来年の夏までに、決めなければならない。
いまオフィスの入っているビル(築56年)が来年の夏、ついに取り壊しになるらしく、それまでに新オフィスを探さなければならない。このビル、わりと気に入っていたのだけど、取り壊しとあらば仕方なかろう。次を探そう。仕事の合間に、不動産サイトをめぐるなどしてナイスな条件の物件を物色している。
しかし、ここでひとつ困ったことがある。
せっかく引っ越すのであれば、い
ドストエフスキーと口述筆記。
きのう、なぜかドストエフスキーの話になった。
糸井重里さん、加藤貞顕さんと一緒にお昼ごはんを食べ、店を移動してだらだらとコーヒーを飲んだそのひとときに、なぜかドストエフスキーの話になった。「なぜか」というのはちょっと嘘で、理由ははっきりしている。ぼくがドストエフスキーTシャツを着ていたからだ。話はドストエフスキーが苦しまぎれに採用した、口述筆記に移った。
ドストエフスキーの著作のうち、少なくと
先を読むことと、足もとを掘ること。
ぼくは、まわりの人よりずいぶん遅れて iPhone を買った。
iPhone(3G)が日本で発売されたのが2008年。たぶんぼくは、2010年とか2011年とかにようやく iPhone 4 を買った。それまではずっと、ガラケーを使っていたわけだ。
ガラケーにしていた理由は簡単で、当時テレビを置いていなかった事務所で(ワンセグ放送により)大相撲中継を観るためである。魁皇が現役だったころまで、ぼく
「自分のため」は、つかれる。
いま、自分がとてもいい時期にいるな、という感覚がある。
会社があほみたいに大儲けしているわけではないし、すてきな婦女子たちにモテモテというわけでもないし、のんびりバカンスをたのしんでるわけでもないし、毎日会社に出ていつもの椅子に座り、なにかしら仕事をしている。それでも、たとえば去年の自分と比較したとき、いまのほうが断然気持ちのいい毎日を過ごしている。ぼくをよく知る友人からは「犬を飼ったからじゃな
結論から先に書きなさい、の意味。
結論から先に書きなさい。
ビジネス系の文章作法を説くものの本、また小論文まわりの指南書などで、よく言われる話である。「オチ」を重んじ、起承転結の流れに慣れ親しんだ日本人の一般的感覚からすると、どこか腑に落ちない話に聞こえる。
おもむろにハンカチを取り出し、思わせぶりな態度でひらひらさせたのち、パッと鳩を消す。そして消えたはずの鳩が、もう一枚のハンカチのなかから羽ばたいてゆく。これが起承転結の流
ぼくが短パンを脱いだ話。
足もとを見れば、そこにはスニーカーがある。
きょうのぼくは、アディダスのスニーカーを履いている。犬がおおよろこびでくんくんしそうなスニーカーを、履いている。ちなみに、ひとの弱みにつけ込んで、ちくちく婉曲な嫌がらせをする慣用句に「足元を見る」なんてことばがあるけれど、ほんとうに足もとを見てくれるなよ、という場面がたまにある。
ドレスコード、というやつだ。
それがどういうお店なのかぼくにはわから
そこをもっと、なんというか、ほら。
セブンイレブン、いい気分。
しばらく前から聞かなくなった七五調のコピーだけれど、いまでも音符付きで、口ずさむようにして思い出すことばだ。別にセブンイレブンに行ったわけでもなく、行きたいわけでもなく、行くとすれば会社からいちばん近いファミリーマートであるにも関わらず、いま思い出している。なぜか。
「気分」について、考えているからだ。
いい気分だなあ、とか、いやな気分だなあ、とかを思っているので
きのう読んだ、ガンジーのことば。
きのう読んだ本に、こんなことばがあった。
「ある国の偉大さと道徳的発展は、その国における動物の扱いかたを見ればわかる」。マハトマ・ガンジーのことばなのだそうだ。ほんとうにガンジーその人がこう言ったのかどうか、確証はない。調べてもいないし、調べることはむずかしいだろう。ひとつ確実にいえるのは、「ガンジーのことば」として、これが残されているという事実だ。
ここでの「動物」とは、事実でもあり、メタフ
どこかで読んだはずの、あの話。
若いころのぼくは、いまよりもずっと図書館を利用していた。
本を買うお金がなかったという身も蓋もない理由のもあるけれど、ふつうの本屋さんでは手に入らないような絶版本がたくさん揃っているのが、なによりよかった。20代までのあいだ、学術書に分類されるような本の大半は、図書館で読んできたような気がする。いまではその多くがネット書店経由で手に入るようになり、ありがたいかぎりだ。
財布にもやさしく、夏の季