見出し画像

歯のメンテナンスに行ってきて。

もともと科学とは、そういうものであるのだけど。

このところ、じぶんという人間のことを、どこか機械のようにとらえる言説が増えてきた。たとえば健康診断や人間ドックを受けることを、「メンテナンス」になぞらえるひとがいる。自動車や建築物を点検・整備・補修するがごとく、おのれのボディを定期検診する。メンテナンスとは、そういう意味で使われているのだろう。

これが歯科検診であれば、メンテナンスは割としっくりくる。歯医者さんで使用される医療機器の代名詞といえばドリル的ななにかであり、治療行為の大半は「削る」や「抜く」、あるいは「埋める」に費やされる。土木工事そのものであり、メンテナンスしている感がある。というかきょう、ぼくは歯医者に行ってきた。がっつりメンテナンスしてきた。


他方、こころのほうはどうだろうか。

こころについても、われわれは「メンテナンス」の語を使うのだろうか。

もし、こころを「脳」のことだと考えるならば、メンテナンスの語や概念もありえるかもしれない。実際、2005年ごろに「脳ブーム」が巻き起こったときには、ぼくのもとにも脳を鍛える系の企画がたくさん舞い込み、何冊かそういう本もつくった。

しかし、真摯な脳科学者(このことばもあいまいなのだけれど)ほど「脳についてはなにもわかっていないに等しい」と口を揃え、安易な唯脳論に異を唱えていた。他の臓器と違い、脳の生体実験には倫理的ハードルが何重にもつきまとう。結果、われわれはfMRIなどを通じて、いまだ脳の血流程度のことしか計測することがかなわない。それでなにかをわかったつもりになるなんて、ましてや「こころ」をわかったつもりになるなんて、あまりに短絡的すぎる。それが当時取材した研究者たちの、一貫した見解だった。

そしてなにより、こころの在処(ありか)を頭蓋骨のなかに閉じ込めず、たとえるならば胸の奥、ほんとうをいえば「からだのぜんぶ」に探している感が、彼らにはあった。ぼく個人としても、なにかこころ苦しいことがあったときには「胸が痛む」と言うし、さすがに「頭が痛む」ではない気がする。


なんの話をしているのか。

いつの時代も「頭でっかち」は、悪口の対象だ。やっかみも含めて、「かしこいだけ」のひとは頭でっかちだとバカにされる。

おかげで「考える前に動け」「行動あるのみ」みたいな言説が幅を利かせたりするのだけど、それもちょっと違うんじゃないかと、ぼくは思う。

ぼくとしてはやっぱり、胸の奥にある「こころ」を動かすことが、いちばん大事な成長因子だと思うのだ。こころが動くようなじぶんをキープしておくことが。

で、こころが動くじぶんであるためには、あらゆる「わかったつもり」から自由であらねばならない。先日書いた「能書きたれ」たちは、たぶんこころを動かす余地が残ってないんじゃないかと思う。


ぼくがいま、いちばん純粋にこころを動かしているのは、スポーツを観ているときだ。批評や分析から遠く離れた場所で、あこがれと尊敬のまなざしでスポーツを観ているとき、いちばんこころが動いていると思う。それにくらべて映画や本は、どこか分析的に「頭」で読んじゃうじぶんになっていて、それはちょっとつまんないなあと思っている。

そうだな、スポーツやコンサートを「ライブ」で観ているときは、ほんとうにこころを動かされっぱなしだな。

あとは犬も、かなり「ライブ」だ。