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探究と、紐づく思想との関係性

こちらの話の続きです。

流れを整理すると、以下の通り。

①コンセプトレンズを装着する
②混沌とした世界から①をもとにモデルを仮説として見出す
(①②は「要因を特定させるための仮説」)
③仮説検証のデザインをする
④③のための決定・行動を行う
(③④は「解決のための仮説」)

https://youtu.be/xKxZ7EDvsMo
こちらから着想を得ました。

割と多いのは、調べ学習を始めて分かった気になって止まるケース、そもそも調べ学習が進まないケースですかね。
混沌の世界を(時には歪んだ形で)広げてしまったり、混沌とした世界に呆然としているという状況でしょうか。

ということは、コンセプトレンズをもとにモデルを抽出する(問いを導く)手続きがいるということなので、どういうコンセプトレンズを装着させるのかによって、調べ学習の様相も変わるということです。

レンズを本人たちが持つもので、となると、そもそも自我が形作られていない高校生では小さな小さな世界観でつくられた歪んだレンズで現象を眺めることになります(大人ですら歪むのに)。他者からのフィードバック(省察、善き方向へ軌道修正する)が大事で、そのためのコンセプトレンズが共有される必要があるのに、それが「価値自由は善」というコンセプトレンズが装着されると何でもアリ価値自由が悪に変容することすらも肯定される)ということになります。

ちなみに、教師側がよくいう「調べ学習で終わる探究はダメ」発言を整理し直すと、コンセプトレンズがないまま調べ学習をして、混沌の世界でグルグルしているという状況だと理解しています。
だから、調べ学習が全て悪いわけでもなく、コンセプトレンズをもとに「要因を特定させるための仮説」を立てる材料として用いるのなら良いのではないかなと思います(もちろん「解決のための仮説」でも必要です)。

さて、こうした状況を打開する目的でフィードバックを受けるため、外部(教師、地域、企業、研究者など)からコンセプトレンズを持ち込もうとします。しかし、その人々の思想が反映されるということに注意しなければならないと思います。コンセプトレンズが共有されないまま、また「価値自由は善」の論理を持ち込むと、外部の「価値自由が悪」へ変容することを肯定します。

そのことに対して意識が向かない教師が殆どなのかなぁと危惧しています。

みんな探究のプレイヤーから何となく良さそうと思ってコンテンツを入れますが、思想チェックをしているのかなとか、そのプレイヤーがどこまでを共同体として捉えているのかなとか、そういう視点がないまま進めているのが気になります。

アントレプレナーシップ教育、企業連携、地域協働、課題研究それぞれにどういう意味性を持たせて取り組んでいるのかを、本当にその学校の存在意義や思想と照合させながら進めているのかが大事なのだと思います。

高校生が楽しそうだから、目を輝かせているから、探究は素晴らしいみたいな視点で探究を肯定するのはそれでもいいと思いつつ、自らが生きる地球規模での問題や課題解決の本質とは何だろうというところにアクセスできない探究は私には物足りないな、と思います。

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