見出し画像

「純粋に」知的好奇心に突き動かされるということは本当にあるのか?-「探究」をまた考える

よく「純粋に知的好奇心に突き動かされて大学へ行くのでもいいんじゃない?」という話をされることがあるのですね。

でも、そもそも「『純粋に』知的好奇心に突き動かされる状態」って本当にあり得るのかな、と疑問を抱くんですよ。
そんな単純なのか?もっと邪なことだって頭の片隅にあるものじゃないのか?無意識の世界だけでもないだろう?別の動きがあるんじゃないのか?と。
そもそもコトは複雑なものだから、単純化されたものには何かしらの意図があると捉える必要があると習慣付いている私の悪い癖。

論文検索していたら、以下のような論文を見つけました。

新奇な情報を幅広く探し求めることを動機づける「拡散的好奇心」という概念があるんだね。
基本的性格特性や気質に説明されることが大きい。
ということは、そもそもの個人差が大きいということか。

一方、ズレや矛盾などの「認知的」不一致を解消するために特定の情報を探し求めることを動機づける「特殊的好奇心」というものもある。
こちらは提示する矛盾の適度な水準が存在し、刺激の不整合や不一致の程度が大きすぎると学習達成の妨げになる(パニックゾーンの話)。
こちらも個人差がある、と。

どちらが大事で、という話でもなく、両方あるということなんだけど…
前者は割とコンテンツベースでつくるんだろうけど、要は好き嫌いや本人の性格や気質に委ねられるということで個人差が出る。
後者はスキルをどうトレーニングするかということだけど、難度が高すぎると手放す(「今の私にはできない」と思われたら、矛盾が大きすぎて、好奇心を向けなくなる)。

個人的には後者のトレーニングが少ない、というか、問題(理想の世界と現実との大きなギャップ)をどう埋めるのかに取り組むにあたり、好奇心だけではそもそも立ち向かえないだろうな、と思うわけです。

探究の領域を「好奇心」という捉え方を主に捉えるというのは限界があります。
それは「自分が楽しいかどうか」という尺度で世界を捉えているわけで…
自分がどうにかできる範囲で生きるということを、自己都合で捉えている節があるな、と怪しさを感じてしまうのですね。
そうなると、世界に横たわる傷をどう解きほぐすか、その中でどう自己を世界に位置付けるか、という発想に辿りつくのは偶然性によるという回答にならざるを得ないのでは?

探究の在り方を「好奇心」をもとに考えることに違和感を抱き始めているので、再度考えないとなぁと思うわけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?