声と文章のあいだぐらいのものが足りてない
文章は突然生まれない。もうずーっとずっと文章を書いて生きてるけど、やっぱりそう思う。
じゃあ、どこから文章は生まれてくるのか。
これはもう生命の起源(大げさ)みたいなところにも通じてしまいそうなのであれなのだけど、まったく筋が遠いとも言えない気がする。
どうしたって生まれてくるものは生まれてくるし、生まれてこないものは生まれてこない。
この微生物はなんで存在するのだろうと考えても果てしなく気が遠くなるように、この文章はなんで存在するのだろうと考えても、生まれるものは生まれるのだ。
また話が少し逸れた。こういうのは「良くない」文章の見本だ。無駄が多い。わかってる。
それでもこうやってnoteに書いてるのはどうしてなのか。漠然とは思ってたけど、そうかもしれないと感じたことがあって。
この前、ある人とのちょっとしたやりとりで「こういうこと? って目の前でレシートの裏にサラサラって書かれた」感じっていうくだりがあった。僕にとっては「それな!」案件だった。
なんだろう。たぶん、そういうシチュエーションって誰でも経験したことがあると思うんだけど、誰かと話していて「話す言葉」でも伝えられるんだけど、ちょっとした文章とか絵で「こういうの」って伝えたくなるやつ。
それって、まさに「文章が生まれる」瞬間というか原形みたいな気がする。
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声(Voice)と文章(Sentence)のあいだぐらいの、なんとも表現しづらいもの。話してる声では足りてないし、文章としては整理できてないし練られてない。でも「何か」がすごくある。そんな文章の原形物。
禍に覆われる以前の世界では、わりと日常的にそういうのが目の前に手触り感としてあったのが、いまはすっかり姿を潜めてしまった。
でもね、消滅したわけじゃない。ちょっと忘れてるだけ。
きっといまも、いろんな人が自分の中に持ってると思う。声にはしないけれど、まだ文章にもなってない何か。
そもそも文章=Sentenceって語源はラテン語の「sentire(感じる)」も入ってて、「sense(感覚)」「sensitive(敏感)」とかにも通じるもの。だから、声としては出て来ないし、まだ言葉にもなってない自分の中で感じてるものが「文章」の原形物でも何も不思議ではない。
もしかしたらnoteって、本来そういうものが出せる場所(それだけではないけど)でもあったのかもしれない。
なんとなく、ちゃんとしたものじゃないと読まれない、存在できないみたいな空気も感じることもあるけど、そういうのも読みたいし、そうじゃない「声と文章のあいだぐらいにあるもの」も読みたい。
どっちかと言えば、後者のほうが足りてない気もする。
もちろん、声と文章のあいだにあるものをスクリプト化するのは、それはそれでひとつのジャンルというか芸みたいなものでもあるんだけどね。