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梅ぼしのように時間を使いたい

この10年で何がいちばん変わったか。そう問われて思い浮かぶのは「時間」だ。

このnoteもそうだけど、ソーシャルなコミュニティを含めたネットに使う時間は10年前の約3倍に増えた。情報通信白書からざっくり紐解くと。

のどかな2010年代(よく引き合いに出されるけど東日本大震災のときも、まだLINEすら存在しなかった)、時間は「自分」の中にあり、自分が時間を財布から出したり、入れたりしていた。

それがいまは、どうだろう。時間は自分の手を離れてデータの断片になって散らばり、どれが自分の持っていた時間でどれが周囲の時間で、どれが本当に必要な時間かもわからない。

わからないから、とりあえず何でも取り入れておく。自分だけ時間を取りこぼすのが怖いからだ。

そうすると、少しずつ「自分」が奪われる。

「時間」なんて本当は存在しないという物理学の本も話題になったけど、自分の中にあった時間を開放してしまうことで、自分を失いつつあるのだとしたらそっちのほうが怖い。

やっぱり、もうとりあえず取りこぼすことを恐れて何でも時間を使うのはやめよう。その代り、自分が本当に好きなものと向き合う時間、自分の中にある時間をちゃんと味わえるものに使う。そうする。

2020年代は、ちょっとずつ「自分のために」時間を使う人が増えると思う。拡張しすぎた時間をリセットして。

そして人によっては(それを望むのであれば)結果的にそうやって「本当に自分が好きなもの」と向き合う個人的な時間をちゃんと生きてる人がソーシャルでも目立ってくると思う。

それがどんなに映えない地味なものでも。

たとえば、個人的な例だけど妻も僕も「梅ぼし」が好きだ。え、おばあちゃん? と思われそうだけど好きなものは好きなのだ。

食べものとしての美味しさだけじゃない。自分で梅を収穫して(梅ならなんでもいいわけじゃない。どんな梅ぼしにしたいかを考えて合った梅を選ぶところからが梅ぼし)、洗って一つひとつ軸を取る地味な作業をして塩で漬けて(塩分濃度を何%にするかでも味が変わる)、天日干しする(そのタイミングも大事)の時間全部が好きだからやる。

こうやって書くとすごくカッコ書きが多い。このカッコ書きの部分が「個人的な時間」なんだと思う。

2010年代はソーシャルのプラットフォームとデバイスが行き渡った「誰かのための」時間だった。

それ故に、繋がり、シェアし合う新しい喜びが広がった。それは悪いことじゃない。こうやってnote書いてるのも誰かと分かち合える楽しさがあるのだから。

でも言語矛盾するかもしれないけど同時に、その喜びや楽しさは梅ぼしのように自分へと向かってもいい。

誰も何も言ってくれなくても、個人的な時間が詰まった梅ぼしはおいしい。それも人生にはとても大切なのだから。

根拠のない予測かもしれないけど、2020年代はあほみたいにみんな同じものを追いかけて、みんな同じものを見せ合う時間は減っていくんじゃないかな。

その代りに、一人ひとり違った梅ぼしみたいな「個人的な時間」が「いいね」とか「スキ」される気がするんだ。