見出し画像

動物の賢さと人間の賢さは違う

動物って賢い。わかってる人にはわかってることで、いまさらなんだけど。ただ、その「賢さ」が人間のそれとはちょっと違う。

なんだろう。人間の賢さって、ときどきどうでもいい方面にまで発揮されて困惑することもあるけど、動物の賢さはそういうのじゃない。とにかく生存するための賢さなのだ。

動物学者でもないのに何言ってんだって話だけど、わりと動物の近くの里山で暮らしてると「君ら、賢いな」と思うことがたびたびある。というか思い知らされる。

里山の明確な定義はあるようでないけど、まあ動物界と人間界の緩衝地帯みたいなとこだ。麓では人間の営みがあって、ちょっと入っていくと動物たちの営みがある。それぞれの営みがゆるく混じり合ってる場所。汽水域みたいな感じ。

なので、動物たちが人間の暮らしの中にひょっこり現れることもあるし、人間のほうが動物たちのエリアに(山仕事なんかで)入っていくこともある。べつに特別なことでもなんでもなくずっと昔からそういうものだった。

通常はなんとなくお互いの気配を感じながらも、それぞれの領分で暮らしてるのだけど、ときどき動物さんが人間エリアにやって来ることがある。主に食糧調達だ。

彼らは人間がつくる野菜や果物はおいしいのを知ってる。何かのきっかけで口にすると、やっぱり「あら、おいしいわね。また来ようかしら」と常連になってくれたりする。ポイントプログラムだ。中には常連過ぎてゴールドになる動物もいる。

いつもご来店ありがとうございます。と、いうわけにはもちろんいかない。

向こうも食べたいのはわかるけど、こっちも食べたいのだ。というか、まだ寒っいうちから緑肥を蒔いたり畑の準備と暑い中、野良仕事をして、それなりに手間もかけてようやく育った野菜たち。

それが動物さんと言えども食べられてしまうのは、なかなか「・・・」な感じになる。

         ***

いろんな意味で仕方ない(彼らも悪気はないし、ただ生存のために食べたいだけ)のもわかる。動物と隣り合って暮らすのはそういうものだというのもわかる。

なので、うちとしては「おすそわけ」というところで折り合ってる。トウモロコシなら数本ぐらいはいいさ。それも数に入れて、多少食べられてもショックではない自家用にするにはちょっと多いぐらいの本数を育てることにしている。

なのだけど、ほんと動物たちも賢い。無暗に食べ散らかすってことはなくて、ちゃんと「食べごろ」になったものだけを食べていくのだ。目利きか。

僕はまだ目撃したことないけれど、野菜づくりの師匠の話では、彼ら(ハクビシンとか特に)はトウモロコシならちゃんと一本一本、穂先の皮をちょっとめくって実の充実具合や熟れ具合を確かめて、まだのものは皮を戻し、黄熟の食べごろになったときにおいしくいただくのだ。

実際、うちの畑でも何本かのトウモロコシが、まるで人間が食べたかのようにそうなってた。人間は夜中に生で食べないので動物さんたちの食事だ。

いや、もう賢い。人間が思ってる以上にちゃんと「考えて」る。ただ本能で生きてるだけなんて人間の勝手な思い込みは捨てた方がいい。

他にもいろいろ里山の動物たちの賢い話はあるけど、動物noteではないので。

ただ、思うところはある。例の札幌のクマだって賢いのだ。ときには動物の賢さが人間を上回ることだってあるし(経験しないとわかりにくいことだけど)、人間のおかしな賢さが本質を見誤らせることもある。

人間の頭の中の勝手なイメージ、主義主張だけであれこれ矢を放つと、結局、人間も動物もお互いに不幸なことになるんじゃないか。どうしたらお互いの賢さと折り合いがつけられるんだろう。