文章の音色について
これは思考と思索のただのnoteである。何か有益な「答え」が見つかったり、読後に塊が溶けたりするカタルシスがあるわけでもない。
わかりやすくもないし、愉快な動物がダンスを踊ってくれたりもしない。
端的に「読まれにくい」ことをあえて書いてみる試みのnote。
とくに深い理由はない。なんとなく、こういうのを書いておきたくなったから書く。ただそれだけのことだ。
あることに想いを巡らせる。自分で自分の考えに深く入っていく。
そんなの勝手にやってくれよ。noteにわざわざ書いて全世界に発表するようなもんでもないだろと、口には出さないまでも無意識下の意識レベルでは思う人もいるのはわかってる。
自分が認識してる世界と、他者が認識してる世界がぴったり重なり合うことなんてまずない。
あたり前なんだけど僕らは「同じものを同じように見れない」のだ。
誰かとすぐ隣で、あるいは二人羽織になって目の前のものを見たとしても、1ミリもズレることなく同じ位置で同じ視点で見るのは物理的に不可能だ。
目の前の世界も、自分と他者ではだいたいちょっとずつズレてモアレが起こる。
モアレを目にするのはなんとなくおちつかない。よほどアーティスティックな世界ならいいけれど、そうでもない世界で「自分が思ういいもの」「自分が心地よいもの」「自分が許せるもの」とズレてるのを見るのは気持ちが悪いのだ。
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その気持ちの悪さ、居心地の悪さがなぜか「許せなくて」正義の、あるいは悪意の行動をする人もいる。どっちかが正しくて、どっちかが間違ってるという前提の分断がそこに生まれる。
なぜそうした「分断」が起こってしまうのだろうと考えてしまう。考えたって仕方ないのだけれど。
一応、よほどおかしなコンテクストで言葉を使っていない限り、本当は「そういうのもあるね」で、受け入れることまではできなくても「受け止める」ことはできてもおかしくないはずなのに、なぜか「許せない」になってしまう。
たぶん、いろんなズレが自分で許容できなくなってる人は、自分が思う、こうあるべき、これがいい、こうじゃないとが自分でもどうしようもないんだろう。
一応、誤解のないように付け加えると、そういう人や行為を援護したいわけではない。ただ事実として「どうしようもないんだな」と。
もっと言えば、世界がズレるのはリアルのものを見つめるときだけじゃない。こうやってnoteで書いてる言葉(note以外でも同じだけど)だって、同じようには届かない。受け取られない。
「きょうは雨が降ってます」
たとえば、こんな何でもない言葉が連なった文章だって、僕が何を想って、どんな心持ちで、何をどうしたくて、あるいは何をどうしたくなくて書いてるかなんて誰もわからない。僕自身だってわかってるかどうか怪しい。
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いや、文章はその前後の文脈があるからわかるだろう、伝わる、理解されるだろうって思いがちだけど文脈は音楽で言えば「音色」みたいなものだ(やや強引)。
音は3つの要素でできている。えっと、難しい話ではないです。「音の大きさ(音圧)」「音の高さ(音程)」「音色」。音の大きさは文字どおり、静かな音から爆音まであるけどわかりやすい。
音程も、まあ周波数だし低音から高音(人が認識できる周波数で言えば20Hzから20,000Hz)はだいたい認識できる。楽器に詳しくなくても低音のコントラバスの響きと高音のフルートの響きを間違える人はあまりいない。
問題は「音色」。同じ楽器で同じ譜面を演奏しても、人によって「音色」は変わってしまう。
音色って何? っていう話はなかなか難しい。シンプルな世界なんだけどね。
人の声や楽器(正確にはあらゆる物体)は、それぞれ決まった周波数で決まったかたちに振動する「固有振動」を持っている。逆説的に言えば、だから何だって楽器になるっちゃなる。マグカップでもビスコでも。
で、その固有振動を持つ物体、楽器に振動を与えると共振によって、その楽器の持つさまざまな周波数を持つ「倍音」が同時に発生して、それが音色になって聴こえる。
同じ楽器で同じ音を奏でても、人が違えばどんな楽器の弾き方、吹き方、叩き方そするかで音の振動の仕方=倍音の出し方がそれぞれ違う。
というのと同じように、同じものを見て同じように書いたつもりでも、それぞれ固有の文脈(周波数と倍音)みたいなのがあるために、全然違う「文章の音色」になってしまうのかもしれない。
という話は、専門家の論でも何でもなく僕が勝手に考えたこと(しかもかなり強引に)なので「ふーん」ぐらいに受け止めたほうがいい。
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こうやってすぐ変な世界に入ってしまうのも僕の文章の音色で、もちろん好き嫌いあっていいし、ないとおかしい。
でもまあ、人が書く文章もどうしたって固有の倍音、それも整数次倍音が多かったり非整数次倍音が多かったりみんな違う。
どれが正しいも正しくないもなくて、生物としての自分に合うというか、共振が心地いいものに触れて、そうじゃないものもそれはそれであるけど自分には響かないなでいいんじゃないのかな。戯言。