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何もすることがないと人はどうなるのか

どうも僕らは「時間が空く」「何も予定がない」ことに、なんとなくだけれど恐怖を感じている。

いや、もっと正確に言えば「時間が空いて何もすることがない」実時間よりも、「そういう空白があるかもしれない」という想像のほうに恐れを抱いているのだ。この先に見えざる落とし穴でも潜んでいるかのように。

時間がぽっかり空いたり、何も予定がないことそのものが恐怖なのではなく、そういう状況に何も対処できない、どうしていいかわからない自分が怖いのだと思う。

だから、そんな恐怖を近づけないように隙間時間を埋め、スケジュールを埋め、やるべきことがいくつも連なっていくように生きるのだろう。それに、今の世の中では常に時間を有効に使えていて、やるべきことにあふれている人間のほうが社会的評価が高いのだ。

そうなると、自ら「やるべきことがある人生」から逸脱して、空虚な時間に生きる対極的な人間は「世捨て人」扱いのそしりを免れない。

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世を捨てると人はどうなるのか。まだちゃんと世を捨てたことがないので想像でしかないけれど、それはただの「人」ではないのかと思う。犬や馬(それらはまだ人間に距離が近いが)、狐や熊(彼らは人間がいようがいまいがあまり関係ない)と同じ、ただの動物としての「人」だ。

それは奇異なようで、ちっとも奇異ではない。世を捨てたことで「人」ではない何かになってしまうのなら異形のものと呼ばれてもいいけれど、世を捨ててもべつに「人」になるだけなら、もっとそうなってる人がいてもよさそうなのに、そんなことにはなってない。

それぐらい、今の世の中ではただの「人」でいるのは難しいのかもしれない。

それでもなんとかして、やるべきことも、予定も何もないただの「人」になったとしたら、いったい何をして過ごすのだろうか。狐や熊なら狩りをするところだが「人」は特にすることがない。徒然である。

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徒然とは「物事がいつまでも変わらず、長く続く。変わったことがなく単調で気の紛れることもなく手持無沙汰で退屈なさま。ひっそり閑散としてものわびしい。心に求めるところ満たされないことが続く。じっと想いをこらす」ということになる。現代の文脈では「あまりいい意味」ではない。

歴史上の人物では、かの兼好法師がただの「人」に近いところを生きていた。

『徒然草』第七十五段にはこうある。

「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ」

暇を持て余し嘆いている人の意味がわからない。何もすることのない時間こそ豊かであるのに、と。

何もしていない時間を「豊か」と感じられるか。ただの「人」になることと同じぐらいそれもまたハードルが高い。