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明日もくだらない世界を愛したい

想像してみてほしい。すべてが「意味」あるもので埋め尽くされた世の中やネットの世界を。考えただけで息が詰まる。

あらゆる無駄と無価値と無意味なものが排されたクリーンで価値的で合理的な未来。そこに自分の居場所があるだろうかと、ふと考える。いや嘘ついた。ふと、なんてものじゃない。一日に何度も考える。

もちろん仕事の原稿を書いたり、あまり出たくない電話にも出たり、なぜか古いCGIをいじったりしながらも思考のバックグラウンドでずっと考え続けているのだ。まあ、ちょっとおかしい。

もし何かがどうにかなってそんな超価値生産的社会への移民が奨励され、それに対してインセンティブがついたとしても僕はそっちを選ぶ自信がない。

相変わらず、くだらないこと、どうでもいいこと、意味のないこと、生産的でないことが転がってる世界のほうを選ぶ気がする。たとえその選択に対して何か罰金的な逆のインセンティブが課せられたとしても。

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なんで? と自分でも思う。どう考えたっていろいろ損しそうだし、身も蓋もなく言えば、そんなのでこの先もやっていけるのか疑問符の雨が破裂した水道管のように降り注いでくる。

それでも「くだらない世界、サイコーです!」と言えるか。いや、サイコーなんかじゃないな。それはわかってる。

ライターの世界、本の世界だってそうだ。くだらないけど大事なことは「そういうのは個人で勝手にやってください」になり、ケインズの美人投票に席巻されてきている。

編集者や著者、ライターが「この本の女神を世に出したい」と心底思うものよりも、「平均的にみんなが支持するであろう誰か」のほうをちゃんと選ばなければならないのだ。

マーケットの意向、営業の意向、実売データ、その他が、くだらなくなくて「ちゃんと売れそうな本」をぼんやりと示してくれる。それがすべてではないにしても美人投票は無視するのは難しい。

それはそれだ。僕だって「市場爆発しろ」とは思わない。ただ、それもあるし、くだらないことも同時にあってほしい。くだらないことがどれだけ「ちゃんと」あるか。案外、世界はそんなくだらないことでバランスが保たれているかもしれないからだ。


みんなが平均的に支持してもしなくても、僕は明日もくだらない世界を感じていたい。

僕がこのくだらない世界を愛している理由があるとすれば、きっとそういうことだ。