わかりやすさの時代と悪童日記
「もっと、ここわかりやすくしたいですね」
「ですよね」
編集者とのよくあるやりとり。なのだけれど、ときどきその瞬間が「無」のような感覚に陥ってしまうことがある。宇宙のどこにも属していないような。現在からも過去からも未来からも切り離された・・・のような時間。
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わかりやすさというのは魅力的なメッセージだ。人は、わかりにくいものよりわかりやすいものを選ぶ。中身が同じなら、よりわかりやすくお値打ちなもののほうを選ぶように。
それは現実的に「良いこと」なのもわかる。わかりにくいものを時間をかけて理解するほど、僕たちは暇ではないし、わかりにくいものが世の中にあふれるのは経済的損失でもあるし、そもそもそんなものは買ってもらえない。
そうして「わかりにくいもの」は凄い勢いで排除されていく。じゃあ、その結果、世の中はわかりやすくスッキリしてストレスフリーになったかというと、そんな気もしないのはなぜだろう。
人は「わかりやすいもの」を与えられると、そこから先に深く入ることをやめてしまう。これが「正解」で、これが「間違い」。これが「新しく」て、こっちが「古い」。こいつが「味方」で、こっちが「敵」。
とてもスッキリしている。だけど、リアルの世界では「正しいとも間違ってるともいえない」ものもたくさん転がってるし、「古いのに今でも通用するもの」もあれば、「味方と思ってたものが敵で、敵と思ってたものが味方になること」だって珍しくはない。
つまり、めっちゃわかりにくいのだ。なのに「わかりやすく」なんて、それ逆にわかりにくくしてないか?
ほんとうは「わかりにくい」のに、そんなことありませんよ、わかりやすいですよという空気というか同調圧力のおかげで「わかったように」生きなくちゃいけない。そんなところにもストレスの源があるとしたら。
現実の世界というのは、どちらか片方が心を開けば、もう片方は心を閉ざす
ようなことだって珍しくない。なのに、今の世の中は、その閉ざされた部分を予定調和的にわかりやすく開けて見せる。
「ほんとうは彼も淋しかったんだ。みんなが声をかけてくれるのを待っていたんだよ」という具合に。これではあまりにも酷い。リアリティがなさすぎる。逆に、わかりにくいメンタルで行動をする人は「面倒くさい人」として扱われてしまう。
たとえばアゴタ・クリストフの『悪童日記』に出てくる<小さな町>のおばあちゃんは、自分の行動を決してわかりやすく説明しようとはしない。
あくまで自分の行動規範(たとえ、それが世の中とは相容れないものであっても)に従って行動するだけで、なぜそのように振舞おうとするのかを知りたければ、おばあちゃんの行動を受け入れるしかないのだ。
もしも他人に問われるなら「それが、あたしなんじゃよ」としか答えないだろう。面倒くさいおばあちゃん。
『悪童日記』のおばあちゃんのことばも行動も、そこには救いがたいけれど妙にリアルな何かを感じる。わかりやすさとは真逆の世界。
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それは渡るには、あまりにも非実用的で絶望的なほどに朽ち果てようとしている吊り橋かもしれない。渡り板と板の間に何メートルもの隙間があり、そこから覗き込むと断崖と急流の唸りが聞こえてくるようなものかもしれない。
それでも、その吊り橋が風に震える現実を見つめられるかどうか。きっと、その橋の上に立てば、今までに感じたこともないようなおぞましさや嫌悪感、悪寒を感じずにはいられない。
この世に、こんな種類の感情がきちんと存在しているのだということも知るだろう。そして、橋を渡り切って彼岸に向かうにも、引き返すにしても、自分の足で立つしかないことを身をもって感じるだろう。
恐る恐る一歩を踏み出したときの不確かな感触。踏み抜いてはいけないものを踏み抜いてしまいそうな恐怖。
その瞬間、僕らはわかりやすさを求める「無」の世界から、わかりにくくてリアルな現実の世界に引き戻される。それでも「わかりやすさ」を求められるストレスよりはましな気がするのだけれど。
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