読みたくなる文章を書いてる人は何を着てるのか
文章依存かもしれない。こういう言葉は使わないほうがいいのかもしれないけど。
じゃあなんて言えばいいんだろう。テキストジャンキー? 違うな。ビブリオフィリア? 少し高尚な気配を漂わせてみた。
まあなんでもいいのだけど、とにかく一日中、文章に触れてるのに、それでもまだ何か読みたくなる。
何を読みたくなるかは、そのときによって違うのだけど(朝昼夜とか時間帯によっても違う)、基本的に変わらないのは「読みたくなる文章が読みたい」というところ。言葉にするとわかるようなわからないようなこと言ってます。
なんだろう。何でもいいから読みたいっていうのはなくて、だからってジャンルはわりと限定しない。別に興味関心が向いてない分野について、すごい次元で書かれてるものだって「読みたくなる文章」なら読む。
そう言う意味では文章については野良で雑食かもしれない。それで困ってるわけでもないからいいのだけど、雑食だからこその嗅覚みたいなのはあるかもしれない。
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こんなどうでもいい話を長々書いても仕方ないし、誰にでも参考になる話でもないのもわかってるので端折る。
自分が「読みたくなる文章」はジャンルやスタイルはバラバラだけど、共通するのは「書いてるものとその人がズレてない」もの。
書いてるものとその人が合ってるから読んでて気持ちいい。読みながら自分の中で何かが流れ出す感覚。伝わる人がいるといいんだけど。
書いてるもので自分を大きく見せようともしてないし、小さく見せようともしてない。マウント取ろうとしてないし、卑下して気を引くのでもない。ああ、これはこの人にしか書けないなという文章。
それを(おそらく)書き手も、自分にしか書けないやつを書くんだとか考えずにそのまんまで書いてるもの。
もちろんじゃあ何でも素のままかというとそういうことではなくて、ちゃんとその文章に合った服を着てるというか。その着こなしみたいなのも自然で、ついその書き手と会って話すように読みたくなってしまう。
あえて言えば等身大。等身大って言葉はたまにそれを言う人が説教臭かったりするけど、純粋にその言葉そのものは悪くなくて。
その人のアイデンティティと合ってる。だから書いてることが自然に入ってくる。読まれるアイデンティファイ。
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なんか、いろんな目的とか願望とかがよくわからない具合に絡まって、こう見せなきゃとかこう見られるために、こう届くためにの文章がどんぶらこと流れてるし、うっかりすると自分も同じことしてるかもしれない。
変な服を着た変な感じになってる文章。でも、そういうのを本当に心の底から「読みたい」かといえば疑問。
それでも例えば自分が大きな服を着て「大きなこと」が書いてみたいなら自分そのものを、ちゃんと大きくすればいい。そうしたらたぶん読みたくなるものになるんだと思う。
◎21人の書き手による読みたくなるものしか入ってないマガジン