見出し画像

そろそろ自分の大事をちゃんと育てようか

打ち合わせや取材をしていて、小さな違和感を感じることがある。

話の内容も的を得て(射て)、簡潔で淀みない。普通に考えれば何も問題ない。でも何かが滑っていく。

言ってることは正しいのだけど、その人が本当のところ「何を大事にしてる」かが見えないのだ。何かの指標で表せるKPI的なことではなくて。

自分はこれが大事。世の中のトレンドとか、儲かる儲からない、流行る流行らない、スケールするしないに関係なく大事なことってある。それが一向に見えてこないんだ。

もちろんこっちもライターなので、全方位からそこを探る。なんとか「構造」の中にその人ややろうとしてることの「自分の大事」が見えてこないかなと思って話を聞く。

そうすると、薄ぼんやりであったり、「これは個人の意見なんですけど」の注釈付きで、こういうのを大事にしたいの輪郭は浮かんできたりもする。

だけど、それはあまりに解像度が低くてぼんやりしているので、ビジネスの文脈的には「それほど重要じゃない」になってしまう。

実際問題として、仕組みがそれなりに出来ていて「何をやるか」と「どうビジネスになるか」がはっきりしていれば「自分の大事」はスルーしても成り立ってしまうのだ。

そんなところに、僕みたいなライターが現れ「……」な気持ちになりつつ、それっぽい原稿を書いたりする。

         ***

こいつ、何言ってんだと思う人もいるかもしれない。

「自分の大事」なんてビジネスにどうでもよくないか。そういうのは個人的な活動の中でやればいいじゃん、と。

そうだよな。いままでは、自分の大事を表明するのは、むしろリスクだったかもしれない。ケインズ先生の仰った美人投票の時代が長く続いたのだ。そして、ある部分ではいまもより強化されてる。

自分がいいと思うもの、自分の大事よりも「みんながいいと思うもの」「みんなが大事にしてるもの」に寄せて、そこでビジネスをしないと競争に勝てなかったのだから。

みんな万人がいいと思うもの、万人に好かれるもの。そういうのをちゃんとやろうとすると必然的に「大きな」話になる。大きいところの優位性が生まれる。実際、これまではそうだった。

だけど、もういまは大きなものから外れたり、そこから仕事を得られなければ生きられない時代じゃない。

僕が仕事をしている本やメディアの世界だってそうだ。

CMもそうだし、公式な情報がみんなに見向きされなくなってる。どうせ良いことしか言わないんだろ。表向きだろ。売りたいだけだろ。それより個人のほうが振り向いてもらえる。

ちゃんと「自分の大事」を持ってる人、それをちゃんと表明して何かかたちにしようとしたり行動してる人に惹かれるのだ。

これまでのビジネスの文脈の中だけで、周りに追従して自分をなくさなくても、みんながそれぞれの「自分の大事」をちゃんと出してるところに、人も楽しい空気も集まってくる。

そういう世界を応援して助けることを、ビジネスミッションにしてる企業や集団も増えた。

寄らば大樹の陰という言葉がある。大きなものに寄っていたほうが何かとメリットがあるという志向。だけどいまは寄らば大樹のリスクだ。

その大樹が寿命を終えたら、何かの衝撃で根本から倒れたら寄りかかるものがいきなりなくなる。

ビジネス界隈でも寿命を終えた倒木も見かけるようになった。そのすぐ脇で、「自分の大事」をちゃんと持った樹々が芽を出し、育ちはじめているのだ。