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ハイコンテクストな私たちが文章で伝え合う理由

ものすごく一般論。日本語はハイコンテクストで英語はローコンテクストと言われる。

ハイコンテクストとは、言語のバックグラウンドにある共通の価値観、文化、思考様式などが文字通り高いレベルにあること。みんながある程度、同じ文脈で通じる世界。

だから、主語がわりと明確でなかったり抽象的な文章でも通じる安心感がある。らしい。そのへんは適当に理解してね、で済んだりしてしまう。

「検討しておきます」が、そう無下に断るわけにもいかないけど、その気ないからねという文脈になるのは日本人なら、なんとなくわかってる。

ローコンテクストはその真逆。言語のバックグラウンドにある価値観、文化、思考様式などがバラバラ。誰が、何をどうしたいのかすべて具体的に言語化しないと伝わらない。

適当に理解してね、だとまったく理解されないしむしろそういう言葉を発する人間自体が理解不能だと思われる。

という前提で考えるとハイコンテクストな私たちが「わざわざ」日本語で長文のコミュニケーションをする理由って何なのか。noteの世界とか。言語化しなくてもわかり合えてるんじゃなかったのか。

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もしかしたら、ハイコンテクスト文化と言われてきた日本がそうではなくなってきてるのかもしれない。というか、日本人みんながハイコンテクストみたいな雑すぎる文脈が「現実と合わない」と、結構みんなが気付いてるのかも。

日本語を母語として、日本という環境の中で育ったことは事実だけど、だからって「みんなが同じ」じゃない。なんか、すごいあたりまえのことを言ってるけど。

本当は、みんな違う。違うから、私はこう思う、こう感じる、私にはこう見えるを言語化する。もちろん、同意されることもされないこともある。だけど大事なのはそこじゃない。

ちゃんと伝え合って、言葉が行き交ってることだ。攻撃したり排除するのではなく。

それぞれ「違ってる」人たちのいろんな文脈の言葉が行き交うのは自然なことで、その中には「個人的に気に入らないもの」も含まれることもある。

だけど、そういうときにこそ日本人のハイコンテクストを発動させて「社に持ち帰って検討します」と言っとけばいいんじゃない。